この哲学ブログの意味 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 新たに哲学ブログを始めるにあたって、この哲学ブログの意味を語っておくのがいいと思います。



 なにゆえに、この哲学ブログを書くか。



 それを述べると、以下のようになります。



 第一に、生きた哲学であること。よりよく生きるための哲学でなければならないこと。

 

 これは確かに大前提です。


 哲学のための哲学のような、自分の知識をひけらかすようなものは、はっきりいって、恥ずかしい行為だと思います。



 哲学は、まず、生きたものでなければなりません。



 その哲学がもっとも目的としているものがあります。



 それは、よりよく生きるとはどういうことか、ということです。


 

 ここで、自分を超えて自分を生きる自分であるものの存在が立ち現れてきます。



 すなわち、宗教における神です。



 しかし、宗教の神は必ずしも正しい存在ではありませんでした。



 もし神が正しいのならば、それに起因する、さまざまな対立や殺戮をどう説明できるでしょうか。



 神は互いに対等なものどうしを結びつけるものであると同時に、互いを分かってきたのです。



 神にしたがうものは善なるものであり、逆に反するものは悪なるものである、と。



 キリスト教においては、罪が神と人の間を断絶している理由として語られ、反キリストなるものが人々の中に、おびただしく生み出されました。



 罪が互いを分かつものとなり、罪を持たないものが神に近い存在として崇められる一方、罪を持っているものが悪しきものとして迫害されてきたのです。



 これは、なにも宗教に特殊なことではなく、どのような社会においても存在している差別、区別の思想です。



 社会においては、社会適合者と不適合者。愛国者と非国民というように。



 自分を超えて自分を生きる自分であるものは、よりよき自分というふうに言うことができます。



 このよりよき自分もまた、必ずしも正しい存在ではなかったのです。



 もしよりよき自分が正しいのならば、それに起因する、さまざまな対立や殺戮をどう説明できるでしょうか。



 よりよき自分は互いに対等なものどうしを結びつけるものであると同時に、互いを分かってきました。




 よりよき自分にしたがうものは善なるものであり、逆に反するものは悪なるものである、と。



 よりよき自分は、イデオロギーとして、ある時代、同胞に対する粛清をもたらしました。



 



 互いが生き合われることを阻んでいるもの。それを解き明かし、かつ解放し、ふたたび、互いがよりよく生き合われるようにすること。



 それが哲学の主たる存在理由であると、わたしは確信しています。



 現実をどうかすることはできないと説くものは哲学ではありません。



 それこそ、哲学がつねに対峙してきた、悪しき宗教、あえて言うなら似非宗教なのです。



 わたしたちは、似非宗教者たち、似非哲学者たちをよく見極めなくてはなりません。


 

 科学的なものについても、警戒を怠ってはいけません。



 科学的なものがじつは悪しき似非宗教であったりするからです。



 わたしたちの見えない、さまざまなところに、互いがよりよく生き合われることを阻んでいるものが潜んでいます。




 わたしが提案するのは、自分を超えて自分を生きるものに根ざしながらも、やがて互いに対等なものどうしの絆であるものによって救済されるという神学です。



 これが誤った考えであるかどうか、それはあなた自身で判断してください。



 あくまで、そのように考えたら、いろいろな問題が解決することができるかもしれないという提案なのです。



 唯一な神が存在しているかどうか。わたしの方からはなにも言いません。



 また、言っても意味のないことだと思います。



 神がいるかいないかではない。



 それは、あなたの考えることではない。



 あなたが、よりよく生きるとはどういうことなのか、それをあくまで追求してほしいのです。



 ただ、無批判に神を信じて生きるのは止めて欲しい。



 また、神はいないと決め付けて生きるのも止めて欲しい。



 あなたには、神がいるかいないかを決め付ける権利などないのです。



 哲学は、考えられることを考える。このことに終始します。



 それは一見、不完全なものの考え方に見えるかもしれません。



 しかし、そこに、豊穣な世界が広がっているのです。



 最初から、神はいるかいないかという前提での議論は、自ら思考の限界を作ることになります。




 具体的なことを言いましょう。



 これから展開するのは、ズバリ、自分自身に起因する神と、互いに対等なものどうしの絆である神の対立と融和の内的物語です。



 そのようなものは存在しない、とあなたは思われるかもしれません。



 これは、あくまで哲学的に考察する神です。



 この神は、じっさいの神のことではないとも言えるし、じっさいの神のことでもあるとも言えます。



 それは、あなたが神を信じているかどうか、宗教をもっているかいないかで捉え方が異なってくるでしょう。



 そして、あえて申さなくてもいいと思いますが、この哲学的な神は、よりよき自分に置き換えることができます。



 


 さて、



 これからわたしが、あなたに語らなければならないことは、あなたが誰から創造され、あなたがなにを創造するかということです。



 一つは、エゴの神から創造されたあなたです。あなたは、あなた自身のエゴが欲するものを生きることが神に適うことです。



 もう一つは、互いに対等なものどうしの絆である神から創造されたあなたです。あなたは、互いに対等なものどうしがよりよく生き合われるために生きることが神に適うことであると信じています。



 しかし、あなたの中では、エゴの神がつねに優位を占めているのです。



 唯一な神は自身の互いに対等なものを持たない永遠の孤独を通して、あなたの孤独を通して、あまたのものを生きようとするのです。






 と、今回は、ここまで。



 次回は、創造の神ないし、あなたのよりよき自分の永遠の孤独について語りたいと思っています。




  *



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