今回は、レトリックについて考えたいと思います。
サン・ヴィクトール学派の自由7学科の一つが「修辞学」。すなわち、レトリックです。
狭い意味でのレトリックは、文章を美しく飾ったり、心に感銘を与える工夫のことです。
詩はレトリックの最たるものですが、そのほか、弁舌で人を感銘させる術(弁論術)としても用いられます。
しかし、レトリックは、言葉に対するものに限定されるものではありません。
それは、わたしたちのとかく単調で、無味乾燥したものになりやすい生活を、潤やかなものに変える魔法の知恵です。
わたしたちの生活全般を美しくする工夫のいっさいが、レトリックということになります。
日々の生活の中でいつも大切にしていること。
生活を潤かなものにしている知恵は、レトリックだと言えるでしょう。
レトリックを支えるものは、わたしたちの中の美の意識です。
レトリックを学ぶということは、わたしたちの中の美を解き明かすということでもあります。
中世においては、美は神に対するものでした。
しかし、神の縛りが緩やかになると、美は、わたしたち自身の事柄になったのです。
中世の神が絶対であった頃は、わたしたち自身に美を求めることはタブーだったのです。
けれど、わたしたち自身に神性が認められるようになると、美はわたしたち自身に求められるようになったのです。
男女が交わす愛の言葉は、レトリックそのものです。
相手の心に自分の愛の気持ちを伝えようとする努力が、レトリックの行為なのです。
そうして、男女間の愛の崇高さは、レトリックが鍛え上げた価値だと言えるでしょう。
もとから男女間の愛の崇高さがあったわけではありません。
長い間のわたしたちの歴史の中で、育て上げられてきたものなのです。
それは、より人生を豊かにしたいというわたしたちの願いが、愛の崇高さを生み出したのだと思います。
また、隣人を喜ばせること、楽しませてあげることは無論ですが、隣人の怒りを鎮めてあげたり、隣人の悲しみを癒してあげることも、レトリックの中に含まれている事柄です。
つまり、わたしたちが豊かに人生を生きる知恵がレトリックなのです。
ところで、世間には、価値を否定する考え方がありますが、それは一時のものであるような気がしてなりません。
価値は否定するものではなく、作り上げてゆくものだからです。
むろん、間違っているものなら、作り直さなくてはなりません。
価値を否定するということは、わたしたちの、より人生を豊かに味わいたいという願いを否定することになるのです。
このように考えると、世の中にはさまざまな価値がひしめいています。
貴方が好むものもあれば、嫌悪するものもあるでしょう。
崇高な価値があるかと思えば、くだらないようなものもあります。
しかし、それらが、わたしたちの、より豊かに人生を生きたいという願いが生んだものだと考えれば、微笑ましく思えなくもないでしょうか。