ウィリアム・オブ・オッカムの唯名論からインスパイアされてつづるシリーズの2回目は、「育まれてある自分を見つめる」です。
唯名論においては、貴方を導いたり育む普遍的な存在は、貴方と貴方の隣人によって作り出されたものであって、それに従うことは正しいことではないということになります。
不完全な貴方は、なにが貴方を導き育む普遍的な存在であるかを問うのではなく、貴方が今導かれ育まれてあることを見つめることに徹さなくはなりません。
それだけが、貴方が唯一正しく導かれ、育まれることなのです。
中世のキリスト教会は、このような態度が、キリスト教会の存在理由を破壊することのように見えました。
教会は、まさに普遍的な事柄を通して、信者にキリストの教えを伝えているからです。
同様に、現代においても、世間におけるさまざまな普遍的な価値が私たちの社会を作っていることは事実です。
また、私たちの社会は、その普遍的な価値がなければ成立しないといっても良いかもしれません。
いっさいの普遍的な価値は、わたしたちの思い込みであって、存在しないと決め付けることは、社会に生きる私たちの存在を混乱させることになるでしょう。
いっさいの普遍的なものは存在しないとして、ただ神から生きられている自分を生きること──。
これが唯名論的な信仰ということになるでしょう。
ここには、いっさいのものを誤りに満ちたものとする懐疑主義が流れています。
貴方を導き育む普遍的なものとは、不完全な貴方と貴方の隣人が作り上げたものであって、不完全なものにならざるを得ないことを認識すること。
そして、不完全なものに基づく社会もまた不完全ならざるを得ないことをしっかり認識として持つということなのです。
その上で、唯一真実であることは、貴方が導かれ、育まれてある自分をしっかりと生きるということなのです。
それは、神に祈って、神を頼まずというような、きわめてストイックな信仰であり、また、信仰と非信仰の紙一重のものと言えるものでしょう。
まったく、貴方の心一つにかかっています。
神を信じる貴方は、貴方の生きることそのものが神の信仰を生きることです。
一方、神を信じない貴方は、貴方の生きることそのものが貴方の非信仰を生きることになるのです。
ただし、オッカム的には、そうした非信仰も信仰の一形態ということになります。
そもそも信仰にかかわる普遍的なものが存在しないならば、貴方が信仰非信仰にかかわらず、貴方は神から生きられていることになるからです。
ただ、貴方がそれを自覚的に生きるか、そうでないかの違いだけということになるのです。
これはとても強力です。
つまり唯名論は、教会が存亡の危機にあるとき、その最後の切り札的な考え方なのです。
このことを、貴方と貴方と対等なものどうしの関係について当てはめて考えるならば、貴方は、なにか普遍的なものから導かれ、育まれていると思っている。
けれど、じっさいは、貴方を導き、育む普遍的なものは存在しない。
いっさいのとらわれから思考を解放し、ただ導かれ、育まれている、あるがままの自分を見つめるとき、貴方は、自分が、いかに互いに対等なものどうしから導かれ、育まれてきたかを理解するのです。