この「互いに対等なものどうしを生き合う」は、あと2シリーズというところに来ました。
この終盤に相応しい、中世の大哲学者を登場させたいと思います。
トマス・アクイナス。中世を代表するこの神学者の名を、貴方もどこかで聞いたことがあるかもしれません。
「神学大全」などの著作で知られ、またスコラ学の大成者として中世キリスト教に大きく名を刻む存在です。
今日においての扱いは、むしろ悪しき神学の大成者という見方で取り上げられることが多いように思います。
このブログでは、彼の大分量の著作には踏み込まず、その代わりに、次の問いかけをしたいと思います。
それは、なにゆえに、彼は書いたのかということです。
彼が取り組んだことというと、それは、それまでのキリスト教の体系を古代ギリシア・ローマの哲学によって構成し直すという試みです。
これは、スコラ学と呼ばれているものです。
「学校」の意味の語源となっている言葉です。
そうはいっても、少し彼の著作について触れなくてはなりません。
それは、「神学大全」と「対異教徒大全」です。
この二つの著作について考えたいのです。
彼の主著「神学大全」は、キリスト教を学ぶ人たちに当てて書かれたもので、「対異教徒大全」は、キリスト教を知らない人たちに、キリスト教を説く目的で書かれたものです。
この二つの著作も含めて、彼の著作は、古代ギリシア・ローマの哲学を巧みに取り入れて、キリスト教を述べたものであるということが重要なことです。
彼はアリストテレスの「形相」と「質料」、また「現実態」と「可能態」についての議論に、キリスト教の神と被造物という視点でのアレンジを加えました。
それは、一人神のみが現実態としてのみ存在し、質料と形相の合成体である数多のものを創造した。
ゆえに数多のものは、神を存在の源泉としながら、存在と非在の間で、そこに存在しているという現実態を持ちながらも絶えず変化するという可能態を生きている、ということです。
そして、トマス・アクイナスとアリストテレスとが決定的に異なるのは、アリストテレスの哲学が現世に幸福を求めたのに対して、トマス・アクイナスのそれが彼岸に幸福を求めたというところです。
彼岸というところが、いかにもキリスト教らしい。
この地上にではなく、肉体から魂が離れた後の世界に幸福を求めるのです。
さて、ここでもう一度、最初の問いに戻ります。
彼は、どうして、このような著作物を書いたのか。
それは、どうして、彼は、古代ギリシア・ローマの哲学をキリスト教の中に導入したのか、ということを考えるとき、分かってきます。
そもそも古代ギリシア・ローマの哲学は、キリスト教世界にはほとんど存在していなかったのです。
邪教のものはおびただしく排除されたのです。
しかし、イスラム世界は、古代ギリシア・ローマからの知的遺産を引き継ごうとする意志がありました。
中世の1千年間に、じつはプチ・ルネサンスというべき時期(カロリング・ルネサンス)があり、このときに、それまで忘れられていた古代ギリシア・ローマの哲学がイスラム世界からもたらされたのです。
こうした動きに敏感だった一人が先に取り上げたアベラルドゥスでした。
トマス・アクイナスは、アベラルドゥスの努力を引き継いで、スコラ学を大成したのです。
さて、彼が古代ギリシア・ローマの哲学をキリスト教の理解のために用いたか。
そこには歴史的必然があったかもしれません。
第一に考えるのは、イスラム世界に対する恩返しです。
イスラム世界から教えてもらった古代ギリシア・ローマの哲学を用いて、キリスト教を語ることができるのではないか、ということ。
イスラム世界にキリスト教を理解してもらうために、古代ギリシア・ローマの知的遺産を利用させてもらった、ということです。
そして、第二には、キリスト教を学ぼうとする人たちへのプレゼントです。
キリスト教の中で暮らしていると、キリスト教そのものがよく見えないということがあります。
キリスト教を客観的に見る力を、古代ギリシア・ローマの哲学から得るということです。
違った側面からキリスト教を捉えなおしてみる。
そうすることで、キリスト教の持つ深みをもっと理解することに繋がるというわけです。
ひょっとすると、こうしたアイデアは、トマスの師アルベルトゥス・マグヌスから得たものかもしれません。
マグヌスは、キリスト教だけでなく、さまざまなものを学んだ大博学で知られる人物です。
この人物もまた膨大な著作を残しています。
古代ギリシア・ローマの遺産はもちろんのこと、アラビアの文化を積極的に学んだのです。
この大博学者の下で、トマスは学んだのです。
さて、わたしは、トマスを次の言葉で表したいと思います。
説得力。
説得ということに尽きる。
説得とは、相手の言葉で自分の思いを伝える、ということです。
この中世キリスト教の大系家について、わたしが述べることがあるとするなら、この「説得」ということに尽きるのではないかと考えます。
彼の哲学は、キリスト教の内外の人間に対する説得のための努力であると。
貴方を説得するために、たとえキリスト教ではない、異教のものであろうとも厭わない、という態度です。
どのようなものでも構わない。結果が重要なのです。
結果的に目的に導かれれば、なんでもいい。
わたしが、貴方の言葉で、貴方を説得するということです。
この視点で、この回を含めてこれからの7回書いていきたいと思います。
ではさっそく、貴方を説得する言葉の一つ目。
それは、「わたしは、貴方に、貴方自身が活きられている言葉で語りかける」、です。
貴方が活き活きする言葉はなんですか。
わたしは、貴方に、貴方が活き活きする言葉を語りかけます。
貴方が今日という一日を活気ある一日が送れるように。