今回から特別に、「互いに対等なものどうしを生き合う」と「プロメテウス」のコラボレーション企画として、中世のサン・ヴィクトール学派と現代のプラグマティズムについて述べていこうと思います。
当初の構想では、アメリカで発達したプログマティズムを述べた後に、中世のサン・ヴィクトール学派について述べることを考えていました。
しかし、この現代の哲学と、中世の神学とは、重なるところが多く、一つにまとめた方が読者にとって退屈しないのではないかと思い、二つを並行して述べることにしました。
さて、当初の記述順序にしたがい、まずは現代のプラグマティズムから。
プラグマティズムは、19世紀のアメリカで生まれ発展した思想の一群を言い、思想家によって多少のニュアンスの違いがあります。
この名はギリシャ語で行為・実行・実験・活動を表す「プラグマ」に由来し、創始者とされるパースは、思索は行為をともなうものでなければならないとして、この名を用いました。
それまでの哲学的思索は思索のための思索のようなところがあって、思索がかならずしも行為を伴うものではなかったのです。
東洋にも、言行一致という考え方がありますが、思想は行為を伴うものでなければならないのです。
「プラグマティズム」を喧伝するのに一役買ったウィリアム・ジェームズは、パースの考えを有用性という言葉に変換しました。
つまり、有用な思索でなければ意味がない。
有用なことを考えるべきだということです。
考えてみると、人生は短い。
この世界の一切を経験することはむろん、あらゆるものを知り、理解することには限度があります。
無駄に思索をするのはどうか? もっと有益なことを考えては?
ということになるのではないでしょうか。
ただそうして、有用なことばかりをやっているのもつまらないとは思います。
無用なことと言われることが、意外と意味があったりしないとは限らなかったり。
さらに、ジョン・デューイは、思索はなにかを成し遂げるための道具である、ということを主張しました。
道具であるから、もしそのやり方が効率的でなければ取り替えることができるのです。
貴方は、より効率的な思索の方法を用いて、事柄に当たればいいのです。
こうした実用主義的な考え方が、アメリカという国の発展を支えたと考えることができます。
また、この実用主義的な見方が、あまたの経営哲学を生んできたのです。
ところで、このような実用主義的な発想は、中世のキリスト教世界にも見ることができます。
それが、12世紀のサン・ヴィクトール学派です。
この学派の創始者は、アベラルドゥスと普遍はあるとする立場で論争した、ギョーム・ド・シャンポーという人物です。
彼は、アベラルドゥスの師であり、自分の弟子と論争したということになります。
この学派の特徴はなんといっても、世間から離れて暮らすのではなく、世俗文化を受け入れながら求道生活を生きる、開かれた人たちだということです。
それは、世界は、神が創造したものであり、貴方がこの世界から生きられているのは、神がそれを望んでいるからであるから、貴方が今じっさいに生きられているものを生き、また学ぶことこそで、神についてより理解することができる、ということです。
世俗から離れて暮らすことは、神が創造したものに触れる機会を自ら持たないようにしているようなものだということになるでしょう。
サン・ヴィクトール学派で必須として取り組まれた自由7学科の中の一つが弁証法です。
弁証法を学ぶことを通して、この世界と貴方のかかわりや、世界の成り立ちを論じるとともに、いっさいの創造者である神を理解することが期待されたのではないかと、わたしは考えています。
さて、弁証法は、貴方に気づきを与えます。
世俗の中に、神の意思が表れている。
世俗のものから自分が生きられているものについて学ぶことを通して、貴方は、貴方が神から生きられているという実感、すなわちエクスタシス(静観)のうちに神と合一する。
貴方は、いっさいのものから学ばなくてはならない。
すべてのものはみな、貴方が、神から生きられるための道具なのだ。
この世界は、貴方が、神について学ぶためにあるのだ。
だから、貴方は、この世界から貴方がどのように生きられているかを、あらゆる機会を通して学び取る必要がある。
そして、まずは、この気づきを得ることが、貴方の神に至るための第一歩になる。
貴方がいかに神から活かされているかを、貴方は、貴方が活かされている世俗のものを詳らかにすることから始めよう。
これは、現代を生きるわたしたちにとっても有用なメッセージです。
自分が活かされていることを詳らかにする。
それは、貴方がよりよく今を生きることをもたらしてくれることでしょう。