互いに対等なものどうしを生き合う 第66回 アベラルドゥスその一 唯一のものから生きられる | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 今回から中世の神学者アベラルドゥスからインスピレーションを受けたものを綴っていきたいと思います。



 ところで、アベラルドゥスとはラテン名で、わが国ではフランス語よみのアベラールの名で知られています。



 アベラルドゥスは、「アベラールとエロイーズ」という書物で中世フランス文学史に名を残している人物です。



 すでに名声を博していたアベラルドゥスは、あるとき20歳以上も歳が離れた教え子で、知と美とを併せ持つエロイーズと恋に落ち、彼女との間に子供まで生まれます。



 エロイーズの親族はこれに激昂し、アベラルドゥスを襲って、男性器を切り落とすという暴挙に出ると、二人はこのことを自分自身の罪として受け止め、それぞれ別の場所で、聖職者としての道を歩んでいくことを選んだのです。



 別々の場所で聖職者として歩んだ二人が交わした手紙が、「アベラールとエロイーズ」という名の書物として後世に残されたのです。



 ところでアベラルドゥスは、普遍的なものは、神の意志の中にだけある、と考えました。


 

 そして、わたしたちがふだん、普遍的なものとして認めているものは、わたしたちの思い込みであって、わたしたちは、わたしたちの思い込みであるものから解き放たれ、唯一普遍として存在する神への信仰を生きなければならない、と説きました。



 ヨーロッパは、キリスト教を拡大してゆく中で、じつは多神教的なものをキリスト教化してきたのです。

 


 このことが、キリスト教に、さまざまな存在を生み出すことになりました。 


 

 ハロウィンもそうしたものの一つです。





 クリスマスとか謝肉祭とかいったものもそうです。 

  


 聖母マリアも、純粋に考えると、どうして聖母マリア信仰はキリスト教の信仰になるのかということになるでしょう。



 アベラルドゥスは、わたしたちをわたしたちの思い込みである「普遍的な存在」から解き放ちし、唯一普遍的な存在である神の意志へと導こうとしたのです。 



 イスラムの影響もあるかもしれません。


 当時のヨーロッパでは、古代ギリシア・ローマの古典を学ぶには、イスラム文化圏との交流によるところが大きかったようです。


 というのも、キリスト教が拡大してゆくなかで、ヨーロッパにあったはずの古代ギリシア・ローマのものは邪教として多く排除されてしまったからです。


 アベラルドゥスもまた、イスラム文化圏を通して、古代ギリシア・ローマの古典を学んだことが推察されます。


 それといっしょに、イスラムの神への純粋な帰依という思想も学んだのではないでしょうか。


 

 今日、彼は唯名論の創始者とされていますが、彼の思想を一言で言い表すなら、それは、わたしたちが普遍としているものを疑い、ただ神の意志によって生きようとすることなのです。




 ここにアベラルドゥスの思弁が唯名論の域に留まらず、普遍の存在を認めるトマス・アクイナスのスコラ哲学を生むものでもあったことが理解できます。



 すなわち、彼において思索するとは、論理(具体的には弁証法)によって、思い込みであるものからわたしたちの信仰を解き放ち、唯一の普遍的存在である、神の意志を探索しようとする試みであるということです。



 ただ、唯一の普遍的存在である神の意志を理解することはとても不可能に近いことのように思われます。


(※聖ベルナルドゥスは、信ずる心こそがすべてであって、神を論理的に述べようとすることは好ましくないとしてアベラルドゥスと激しく対立しました。)



 けれど、ここで大事なことは、神について理解するということではなく、神について、いかに自分が無知であり、普遍的なものといわれているものに惑わされていて、神なるものから遠ざかっていたかを理解するということであるかもしれません。



 神について無知であることを知るものが、もっとも神について知るものなのです。


 

 それは、哲学の祖、古代ギリシアのソクラテスを思い起こさせます。



     *



 アベラルドゥスについてはこのへんで留めておくことにして、ここからが、本題です。



 貴方はさまざまな言説の中で暮らしています。



 けれど、貴方が信じ、生きるべきものは、それらの中にはありません。



 さまざまな言説は、貴方や貴方の隣人が作り出したものだからです。



 貴方や貴方の隣人が作り出したものは、自己中心的なものだったり、他者依存だったり、さまざまな思惑がつくりあげたものなのです。



 貴方は、そうしたものから自由にならなければなりません。



 そうして、貴方と貴方の隣人が作り出したものではない、唯一の貴方自身であるものによって、貴方は生きなければならないのです。


 

 それはなにか。そして、どこにあるのか。



 それを見つけるために、貴方は理性という道具を与えられているのかもしれません。



 その理性という道具は、貴方だけでなく、貴方がかかわる貴方の隣人や、貴方が生きられる世界にも用いられるのです。



 すなわち、貴方は、貴方と貴方の隣人が作り出したものではない、貴方のからだであるものからどのように生きられ、貴方の隣人であるものからどのようにかかわられ、貴方の生きられる世界からどのように生きられているかを、理性の力を通して理解するのです。



 そして、貴方と貴方の隣人が作り出したものではない、貴方のからだであるものからどのように生きられ、貴方の隣人からどのようにかかわられ、貴方の生きられる世界からどのように生きられているかを理解することを通して、


貴方は、貴方のからだであるものから、貴方の隣人であるものから、貴方の生きられる世界であるものから、より生きられ、


また、貴方もそれらをより生きるのです。



 次回は、貴方を唯一導くものを聞き分ける、というようなことを書きたいと思います。



         *



 なかなか毎日更新というわけにはいきません。



 これを書き上げるまでに足掛け3日を要してしまいました。



 今回は、唯名論という、ちょっと馴染みの薄い議論を理解するのに時間がかかったというのが一番の要因です。



 明日はなるだけ更新するようにしたいと思っています。