今回は、実存の哲学をもっとも究極において捉えたと、わたしが考えているマルティン・ハイデガーについて述べたいと思います。
もともとハイデガーは現象学の提唱者であるエドモント・フッサールのもとで学んでいました。
だから、彼の出発点は、現象学者です。
つまり、わたしたちが認める現象とはなにかを語ることに従事していたわけです。
しかし、やがて彼は師と袂を分かつようになりました。
そういうところは、フロイトと袂を分かったユングと似ていますね。
彼は、フッサールが括弧に入れた「わたし」というものにこそ、解き明かさなければならないものがあることを感じました。
師のフッサールが現象にフォーカスしてゆくのに対して、彼は「わたし」の方に関心を寄せていったのです。
いったい、あることをこのように感じ取るこの「わたし」とは何者だろう。
そうして、彼は、これまで誰も問うてこなかったことを問うたのです。
それは、「死にゆく存在」ということです。
これまで、哲学の問題に「死」は入ってきませんでした。
死はとても個人的なものであって、普遍的なものとはなりえなかったからです。
しかし、死ということこそ、じつは重要なのだ、と彼は感じました。
じつは、死にゆく存在ということは哲学では問うてはこなかったけれども、教会では頻繁に説いてきたことです。
人間は死に行く存在である。だから、悔い改めなければならない。
限りある命だからこそ、神に委ねなければならないと説いてきたのです。
彼は、無神論者だったけれども、まただからこそかもしれないが、哲学の問題として死を取り上げたのです。
誰も死を避けては通ることはできない。
なにゆえに死はあるのだろうか。
死は、貴方が生きていることと、とても切り離すことができない事柄です。
若いうちは、死ということを意識しないでいます。
けれど、人生の半ばを過ぎた頃から、しだいに死というものが考えられるようになってくる。
死は、なにかしら、貴方の生の意味と深いつながりがあるのではないか。
また、死はじっさいに貴方の生が限りあるものであることを示してくれています。
限りある命である貴方。
ここに貴方の実存があるのです。
誰も貴方の代わりに死んではくれない。
貴方は貴方の死を死ぬのであって、誰かの死を死ぬわけではない。
また、貴方の時間は永遠にはない。
貴方は、貴方の人生を、意識的に選択的に生きるのです。
すなわち、今を生きる、ということ。
今という時間を大切に生きる。
この今という時間は、限られた貴方の生の、まさに貴方が生きつつあるものです。
貴方は記憶の中を生きることが出来ても、過去の生そのものを生きることはできません。
また、未来の未知の貴方を生きることもできません。
貴方が唯一生きるのは、この今という時間なのです。
この今だけが貴方が生きる時間です。
明日もあさってもない。今です。
この今を永遠のように感じられることこそ、存在の奥深さを感じることです。
それは、中世の神学者マイスター・エックハルトの思想に通じるものです。
(※エックハルトはわたしがもっとも大事にしている思想家で、「互いに対等なものどうしを生き合う」の最終シリーズで述べさせていただく予定です。)
ところで、今を生きることの大切さは大賛成ですが、ここに問題がないとは言えない。
というのは、貴方は世界の只中で自分の時間を生きるのだけれども、世界自身に対してはなにも働きかけることはできない、ということです。
それは、自分の運命をただ受け入れて、その中でよりよく自分らしく生きようとする生き方といえるかもしれません。
つまり受身なのです。
この思想的なもろさが、ナチスに利用されることになった要因だったかもしれません。
ヒトラーはドイツ国民がナチスの世界観にしたがって生きることこそが、幸福な生き方であると喧伝したのです。
第一次世界大戦後、自信を喪失していたドイツ国民は、ヒトラーの呼びかけに熱狂したのです。
このちょっと危険な感じのする男に賭けてみよう──。
ハイデガー自身も、ナチスに入党し、ヒトラーのプロパガンダに協力したのです。
このことが戦後、ハイデガー批判を巻き起こすことになります。
ただ、そうした思想的なもろさはあるにせよ、彼の提唱した「死の哲学」は重要です。
死にゆく存在であるということを、哲学の問題として定着させたことはとても画期的でした。
なぜなら、それまで宗教の領分だったところに、哲学が大胆にも分け入ったからです。
そこに、哲学による宗教の征服という野望があったかどうかはわかりませんが・・・。
ただ、それまでの宗教や哲学に代わる、新しいものを作り出そうとする気概のようなものが感じられます。
ちなみに、ハイデガーは、自分のことを「実存哲学者」と呼ばれるのを嫌い、あくまで「存在学者」と言われることを望んでいたようです。
つまり、積極的な生き方としての実存の哲学ではなく、あくまで自分の存在を客観的に解き明かそうとした哲学なのだということを言いたいのでしょう。
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プロメテウス。主なるものに向かって語りかける。
「主なる貴方よ。貴方は、死によって、貴方に代わって貴方のからだであるものを生きる、貴方の分身たちをより生きようとしたのである。
すなわち、貴方はこう語りかけたのであった。
『限られた命であるものたちよ。貴方がたは、貴方がたの主なるわたしにすべてを委ねることで、永遠の命を手に入れるであろう。
わたしにすべてを委ねることで、限られた命である貴方がたは、死を乗り越えることができるのである。
わたしにすべてを委ねて、限られた命を生き抜いて死んだものの魂は、けっして死ぬことのない永遠の世界の住人になるのである。』
そうして、貴方の声を聞いたおびただしいものたちが、自身の命を散らせて行ったのであった。
貴方は、このおびただしい命を受けて、より貴方であるものを生きた。
けれど、貴方が受けた、おびただしい命は、いつか貴方に災いするであろう。
なぜなら、貴方の声に応えて限られた命を散らせたおびただしい命は、貴方の中でいつか互いに対等なものどうしとして生きるようになるからである。
あたかも大勢のもののために、貴方の作った大きな家で、貴方一人だけがいるようなものである。
貴方は、気が付かなければならない。
貴方一人だけよりよく生きようとすることが、むしろ貴方自身を大きく損なっていることになるのだ、と。」