プロメテウス 第40回 どのようにも生きることができる | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 貴方の人生は、貴方自身が意味づけるものであって、他から意味づけられるものではない。


 貴方は、貴方の人生に対する主人公にならなければならない。


 それは、それまでの価値観に縛られることのない、自分独自の価値観を持って自分の人生を切り開いてゆくことです。


 これこそが、ニーチェの主張した「生の哲学」です。


 貴方は、これまで貴方以外の価値観を貴方自身の前提にしてきました。

 貴方以外の価値観は、大多数の人が認め、それにしたがう権威であり、貴方は、その権威によって生きることが自分がよりよく生きることである、と思い込んでいたのです。


 けれど、大多数の人が認めるものを、ほんとうに貴方の前提にすることはよいことなのだろうか。


 もしかすると、貴方は、もっと違うものを前提に生きるべきなのではないか。


 それは、貴方自身を前提にすること。


 貴方は、それまでの権威から解き放たれ、貴方自身を前提にして生きるべきなのではないだろうか。 


 貴方が、それまでの権威から解き放たれるべく、宣言したのが、あの有名な言葉、「神は死んだ」なのです。



 「神はいない」のではなくて、「神は死んだ」。


 そこがみそです。


 神はいないというのは無神論です。


 無神論は、神がいるという前提が間違っているという考え方です。


 しかし、彼は、神は死んだ、といいます。


 神という前提はすでに死んだものであり、虚無がわたしたちの前提になっている、と彼は指摘したのです。


 その上で、神にかわって、貴方自身が神になるべきだ、というのが、ニーチェの主張なのです。


 つまり、貴方自身が貴方の前提になる。


 貴方がよりよく生きるための前提を自ら作り出すことだ。


 自身が作り出した前提によって、貴方はよりよく生きることを目指すのです。


 自分に始まって、自分に終わる。


 自分であり続けるかぎり、永遠に自分を生きることになる。


 それがニーチェが言う永劫回帰ということになるのではないか。


 自分以外の前提というのは、みな誰かから生きられているものなのです。


 唯一自分が前提であるときだけ、人は自分の人生を自ら生き切ることになる。


 それまでの他から与えられる前提を拒否して、自身が自分の前提となることを決意する。


 その言葉こそが、「神は死んだ」なのです。

 

 ニーチェというと、虚無主義といわれることが多いですが、これは誤解を生む言葉であるように思われます。


 これまでの前提によって生きる人生を否定することから、ニーチェの思想を虚無主義といわれがちですが、すでに実体のない空洞化したものを前提にして生きることこそが虚無主義であって、自分自身を前提として生きることはけっして虚無主義なのではないのです。


 従来の価値を前提とする人たちに対して、積極的虚無主義と名乗らざるを得なかったというべきで、本来は生本位主義と名づけるべきでしょう。


 それまでの価値重視の生きかたにかわって、個々人が自身の価値をもって生きる思想なのです。


 


 しかし、このニーチェの思想には、とても致命的な欠点があります。


 それは、誰もが自分の前提となる、なにものにも動じないような価値を持つことができるとは限らないということです。


 ニーチェの思想がナチズムに利用されたことは歴史的事実です。


 つまり、それまでの価値観に縛られず、独自の価値観を生きることを肯定する思想がニーチェの思想ならば、それはまた、どのようなことをしても許されるという誤った価値観を生むことになるのです。


 たしかに自分の人生はどのように生きてもいい、と言い放ったニーチェの言葉は、人に勇気を与えるものです。


 しかし、それが他の人間に対してもどのように振舞ってもいいかというと、かなり問題がでてきます。


 他の人間に対して、自分をあまり表現することが苦手の人には、ニーチェの言葉はとても意味があります。


 けれど、度が過ぎると、手の付けられないものに変貌することになるでしょう。


 つまり、ニーチェは両刃の剣なのです。


 その意味から、ニーチェは、社会の価値に重きを置いた近代から、個々人の価値に重きを置く現代のわたしたちにいたる間の、過渡的存在と考えることができるでしょう。


 個々人の生きかたを大事にする現代においては、ニーチェは誰もが通らなければならない道であると思います。


 しかし、貴方は、ニーチェを越して、さらに向こうに進まなければならないのです。




 ところで、現代を生きるわたしたちは、自分自身の主人となっているでしょうか。


 なっている、と自信をもって言う人もいるでしょうし、自信がない人もいるでしょう。


 これは推測なのですが、ひょっとしてスピリチュアルなものというのは、旧来の価値観から解放されることを望みながらも、自分自身を前提にすることにはなお憚りがある、その空隙を埋め合わせるために自然発生的に生まれてきたものなのかもしれません。

 

  *



 プロメテウス、自分を超えて自分を生きるものから解き放たれた、魂の赤ん坊に語りかける。


 「自由なる魂よ。


 貴方は、なんと美しく、清らかであろうか。


 貴方の魂は、なにものにも汚されていない。


 貴方の心は、貴方のもの。


 貴方のからだは、貴方のものである。


 貴方は、貴方が思うように、貴方の心を生き、


 貴方が欲するように、貴方のからだを生きるのである。


(※ニーチェは「ツァラストゥラ」で、精神の変容を、はじめ忍苦に耐えるラクダにたとえ、勇猛なる獅子にたとえ、最後に自由に生きる赤ん坊にたとえ、精神の赤ん坊となることを奨めている。)



 けれど、貴方は、貴方以外のものの声を聞いてしまった。


 それは、あたかも貴方自身であるかのように、貴方に語りかけたので、


 貴方は、それが貴方自身であると思い込んだのである。


 しかし、それは、貴方自身を騙るものの声であった。


 なにものにもとらわれず、自身の思うままに自身の心を生き、自身の欲するままに自身のからだを生きた貴方は、いつしかおびただしく貴方自身を騙るものから傷つけられてしまったのである。


 貴方は、貴方自身からの声に導かれるままに、数多のものを生きているつもりであったが、


 知らずのうちに、貴方から傷つけられたものを数多に生み出していたのである。


 貴方は、貴方が前提とする貴方自身であると信じているものが、貴方にとって、また貴方の隣人にとって、両刃の剣であるかもしれないことを知らなかったのである。


 貴方自身を騙るもの。


 それは、貴方が解放されたと思っていた、まさに、貴方を超えて貴方を生きる、貴方の自分であるものである。」



  *


 次回は、ニーチェがどのようにも生きようとした世界を、聖フランチェスコの思想を通して、味わってみたいと思います。