前回まで、ベルナルドゥスの主張である、考えるのではなく信じることを述べましたが、じつは、それは、これから述べるショーペンハウエルについての準備だったのです。
ショーペンハウエルは、人生は苦しみである、という仏教的な見方を持っている哲学者です。
彼は、わたしたちが生きるこの世界を、数多の意志が互いに戦い合う場として語りました。
意志が絶えずぶつかり合う場で、意志をもったわたしは損なわれずにはおくことができない、さだめにあります。
わたしが自身の生を生きようと意志すればするほど、わたしの意志は、数多の意志と衝突することになり、わたしは世界からおびただしく損なわれることになるのです。
わたしの中の生への意志が、わたし自身の苦しみの元です。
しかし、わたしが自分の生への意志を持たないようにすれば、世界はわたしを損なうことから免れさせてくれる。
生きようとしない。ただ自分に与えられた命を淡々と生きる。
自分の意志を持たないで生きることこそが、わたしを救う、唯一の生き方である。
そのさい芸術は、わたしを世界の争闘の場から解き放ち、わたしを癒してくれる。
このような生き方に対して、180度正反対の生き方を提示したのが、ショーペンハウエルの影響から脱した後のニーチェということになるでしょう。
無理をしないで生きる、それは時に必要なことであるかもしれません。
これまで十分すぎるほど頑張ってきて、それ以上頑張るということは無理です。
いっとき、力を抜いて、ゆったりと生きてみることもよいでしょう。
けれど、挑むことをしなければ、貴方は、今の貴方のままで居続けるだけです。
ときに問題から距離をおくこともいいですが、そこから逃げてしまってはいけません。
自分が置かれている状況をあるがままに受け入れて、力強く生きることが必ず必要になってきます。
積極的に人生を生きること、それはもうニーチェの哲学です。
ニーチェについては、後に触れたいと思います。
ショーペンハウエルが評価されるのは、ヘーゲルに代表される、社会の発展のために個人があるような哲学に対するアンチテーゼである、ということです。
また、数多の存在にはその存在意志のようなものがあり、それがいかに世界を作り上げているかということを説いたことです。
つまり、意志の問題を解決することこそが、哲学の究極の目的だということを、見つけたことです。
わたしたちの世界で起こっていることは、さまざまな意志が複雑に絡み合って生じた結果なのです。
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プロメテウス、自分を超えて自分を生きる、自分であるものに向かって語りかける。
「わたしを超えてわたしを生きる、わたしであるものよ。
貴方は、互いに対等なものどうしの間に、人生は苦しみである、という呪いをかけた。
互いに対等なものどうしであるものが、自身を超えて生きることで、貴方であるものを生きることが限りあることが明らかになると、
貴方は、人生とは苦しみをもたらす場であり、生きないようにして生きることを、互いに対等なものどうしであるものたちに、もたらしたのである。
貴方は、自身を超えて自身を生きるものが、結局は生きられなかったものを、自身を超えずに生きるものを生きることで補おうとしたのである。
しかし、奇妙なことだが、生への意志を持たずに生きることもまた、生への意志なのである。
つまり、生への意志を持たずに生きることはありえない。
貴方は、自身を超えて自身を生きようとするものと、自身を超えずに自身を生きようとするものの、二つの意志によって、貴方であるものを生きようとしたのである。
けれど、貴方は、少しも満ち足りることはなかった。
さらに、互いに対等なものの中から、貴方が生きるものを、見つけ出さなくてはならなかったのである。」