互いに対等なものどうしを生き合う 第5回 エリウゲナその五 言葉の起源(ならびに解脱について) | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 貴方の持つ「言葉」について、述べたいと思います。


 ここにいう「言葉」とは、貴方が他からかかわられることであり、また貴方が他にかかわろうとすること、です。


 つまり、貴方にかかわるものの意思、または、貴方が他のものにかかわる意思のことです。


 なにか対象がなければ、そこには言葉というものはそもそも意味をなさないのです。


 言葉は、なにかに対する志向性を表したものということになります。


 すなわち、貴方がしたがうべき事柄であり、また貴方が他のものに対して求める事柄です。


 そういう意味で、貴方がまだ自分の意思というものを持たなかった頃、すなわち貴方がこの世に誕生した直後は、貴方はまだ自分の言葉を持っていなかったのです。


 しかし、この世に誕生した貴方はすぐ、貴方以外のものとのかかわりを通して、貴方の言葉を獲得し始めたのでした。


 貴方が触れるものから、また貴方の隣人から、貴方は、貴方の言葉を与えられてきたのです。


 そうして、貴方の隣人もまた、貴方とのかかわりの中で、自分の言葉を得てきたのでした。


 もし貴方とかかわることがなかったら、貴方の隣人は貴方とのかかわりから得られる言葉を持つことはなかったのです。

 貴方が今言葉があふれ出しているとしたら、それは貴方が今、貴方の隣人から深くかかわられ、貴方もまた貴方の隣人に深くかかわっているからです。


 貴方と貴方の隣人とが、汲めども尽きぬ泉のように、互いに深くかかわりあっているのです。


 貴方が言葉を紡ぎだすとき、それは貴方が、貴方の隣人を語っているときであり、貴方の言葉でもって作り出されたものは、貴方の隣人に対する思いが表れ出たものなのです。



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 ちょっと脱線して、仏教でいう解脱の意味について考えたいと思います。

 言葉はいつも貴方にとって、また、貴方の隣人にとって、良いものばかりを運んでくるとは限りません。


 世俗(の言葉)から超越した、仏法(という言葉)によって生きる境地のことを、仏教では解脱というのでしょうか。


 なにものにもとらわれない境地を生きること。


 ただ、仏法もまた一つの言葉です。


 世俗の言葉からは自由になったとしても、貴方は新たなとらわれを持つことになります。


 仏法にとらわれるのは、世俗のとらわれとは訳が違う、と貴方は反論されるかもしれません。


 しかし、とらわれは、とらわれです。


 仏法によって生きることは、確かに世俗のとらわれ(世俗の言葉からのとらわれ)から自由になるかもしれませんが、それは、本来の生を放棄することです。

 生きるとは、この世界でさまざまなとらわれを生きる、ということだからです。


 たしかにさまざまなとらわれがわたしたちを苦しめていることは間違いありません。


 そうしたところから、仏教が誕生しました。


 しかし、とらわれていることそのことが、わたしたちの唯一の生なのです。


 この生を離れて、生きるということはありえません。


 思うのですが、真の仏教は、仏教自身からも解き放たれることを目指すものではないでしょうか。


 中世の神学者マイスター・エックハルトは、神を信仰していること自体が神への信仰を妨げているから、神への信仰自体から離れなければならない。

 そうすることによって、真に神と一体となれる、ということを説いていますが、これこそ、仏教が目指すべき境地なのではないでしょうか。


 真の解脱とは、仏法からさえも超越しなければならない。


 それでこそ、いっさいのとらわれから解き放たれることだと思います。


 解脱とは、さまざまなとらわれから、とらわれている自分を楽しむ境地のことなのです。


 いっさいのとらわれ(の言葉)を受け入れることができてこそ、本来の貴方を生きることになるのです。


 生きるとは、とらわれることです。


 生の執着以外のなにものでもないのです。


 生の執着から解き放たれることもときに必要でしょうが、それはひどく病んでいるものが一時的に手当てを施される応急措置と考え、さらに生の執着を高い次元から味わう境地へと立ち返るように導くべきでしょう。