あえて取り上げてこなかった聖書の言葉に、「求めよ、されば与えられん」という有名な言葉があります。
この哲学ブログは、通常の考えかたではない、別の見方を提示するというコンセプトで書かれています。
そこで、あえて取り上げるほどの新しい見解はないと判断して、述べることをしなかったのですが、別の哲学ブログを拝見した、ちょっとしたきっかけから書いてみようと思いました。
あなたは、「ジョハリの窓」という言葉を聞いたことがありますか。
(ときおり、みなさんは、とか書いていたりしますが、二人称の探究をコンセプトにしているこのブログでは、ブレブレなので、これからは、あなた、で統一したいと思います。)
わたしもついこの間まで知らなかったのですが、たまたまあるセミナーを受講して、知りました。
自分というものをどこまで理解しているのか、という視点から、自己理解には四つの側面がある、というのです。
1 自分が知っていて、他人も知っている自分。
2 自分は知っているが、他人は知らない自分。→他人に意図的に隠していたり、また示さなければならない自分。繊細な領域。
3 自分は知らないが、他人は知っている自分。→他人から見つけてもらう、客観的な自分。
4 自分も知らないし、他人もまた知らない自分。→新しき自分の発見と形成。
1は自他が共有している自分です。しかし、そこにとどまっているうちは、自己の発展はありません。
新しい自分を見つけること。それが自己の発展になるわけであって、1を2、3の領域にまで拡げてゆくことで、4のより深く豊かな自分というものが形作られる、ということです。
さて、わたしは、この「ジョハリの窓」に「求め」という言葉を当てはめてみたいと思います。
1 自分が求めているもので、他人も求めているものが分かるもの
2 自分が求めているもので、他人が承知していないもの
3 自分が承知していないで、他人が求めているものが分かるもの
4 自分も他人もまだ承知していない、求め
「求めよ、さらば与えられん」とは、このうち、どの求めについて語っているのか、と考えたとき、わたしは、4ではないか、と思いました。その4の求めにいたるために、2を用いたり、3を用いたりするのです。
まだ知らない自分の求め。それは、自分を成長させてくれる求めなんです。
まだ知らない自分の求めですから、いきなり求めよ、といわれても理解できないでしょう。
しかし、互いに対等なものどうしが互いを見詰め合うことで、自分が承知しない自分に気づかされていくのです。これこそ、自分ひとりではけっして見つけ出せないものです。
互いに対等なものどうしの働きかけ合いがあるからこそ、自己はより豊かなものへと成長することができるのです。
求めているものが分かったとき、与えられる。
これがイエスのメッセージです。
重要なことは、なにを求めるか、です。
与えられるものではないのです。
なにを求めるかに気づくとき、もうその求めは達成されている、とイエスは言いたいのだと、思います。
なぜなら、求めに気づいたとき、自己は以前の自己を離れて、より深く豊かなものになっているからです。
これこそが、与えられる中身なのだと、わたしは考えます。