新しきイエス 第十二回 それはあなたを生きようとして、あなたに親しげに近づく | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

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世界とは、貴方について書かれた書物である。

 はじめてこのブログを読まれている方もいるかもしれませんから、またおことわりしておきます(なんどおことわりしても、いいかもしれません)が、ここに書かれていることの多くの部分は、聖書に記述されていることではなかったり、また一般の解釈とは異なるものです。


 それは、わたしたちの根本問題「自分を超えて自分を生きるもの」を暴き出すための意図的捏造だということをぜひご理解いただきたいと思います。


 もっとも、イエス自身ではなく、彼の弟子たちによって書かれたということから、聖書が、はたして真実にもとづいたものかということは、十分疑ってみるべきだと、わたしは感じています。


 そして、イエスなる人物は、わたしがここで創造しているものこそ、真実に近いのではないか、とわたし自身思っているところです。


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 さて、「マタイによる福音書」第七章には、こういう言葉が出てきます。


 ──狭き門より入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。

    命にいたる門は狭く、その道は狭い。そして、それを見出す者が少ない。


 これは、互いに対等なものどうしを生きることの難しさについて語った言葉だと、わたしは思います。

 

 互いに対等なものどうしを生きようとしても、あなたは、たちまち、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものから捕まってしまうのです。

 

 そうして、互いに対等なものどうしを生きるつもりが、いつの間にか、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものから生きられ、知らずのうちに、あなたの大切な隣人を傷つけているのです。



 この後、こういう言葉が続いています。


 ──にせ預言者を警戒せよ。

    彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。


 にせ予言者とは、誰のことか。

 もうお分かりだと思います。


 羊の衣を被った強欲なおおかみとは、あなたを超えてあなたを生きようとするもののことです。


 あなたを超えてあなたを生きるものにとって、あなたは、自身が生きるために必要不可欠なからだです。


 あなたを超えてあなたを生きるものは、あなたのからだを通して、自身であるものを生きようとし、自身であるものを生きようとすることを妨げるものを、どんなに損なうことになってもまったく厭いません。


 あなたを超えてあなたを生きるものは、あなたに、さまざまな奇跡を垣間見せようとするでしょう。

 それは、奇跡こそ、あなたに、あなたを越えてあなたを生きるものであることを証することだからです。


 またあなたは、この世ならぬ恍惚の境地を感じることがあるかもしれません。


 それは、あなたを超えてあなたを生きるものが、あなたのからだを通して、あなたが生きるこの世界に奇跡を起こさせるからです。


 しかし、あなたは、見かけの奇跡に惑わされてはいけないのです。

 それは本当は奇跡でもなんでもなく、見せ掛けのマジックです。


 だからこそ、次の言葉が生きます。ただし、ここで天にいますわが父というのは、それこそ言葉のあやであることを念頭において読んでいただきたいと思います。


 ──わたしに向かって「主よ、主よ」と言う者が、みな天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである。

 その日には、多くの者が、わたしに向かって「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか」と言うであろう。

 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう。

 「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。」


 イエスの奇跡に期待することは、正しいことだとは言えません。

 それは、自身を超えて自身を生きる、自分であるものから生きられることと等しいことです。

 そうではなく、互いに対等なものどうしの間で、互いがより生き合われることこそが、正しいことなのだ、とイエスは言っているのだと、わたしは理解します。


 しかし、イエスが試みたことは、現実を変えるどころか、むしろ現実を複雑にしてしまったのかもしれません。

 すなわち、イエスが、互いに対等なものどうしを解放しようとした、自身を超えて自身を生きる、自分であるものに、彼の死というものと引き換えに、彼自身が祭り上げられることで、彼の試みは完全に挫折したのです。