これからみなさんにお見せするのは、ある妄想の部類です。
じつは、これを最初にお見せしていれば、これまで書き綴ってきたものも、もう少し分かりやすかったのではないか、と反省しています。
それは、アフリカの大地に誕生した人類の祖が、どのように知能を獲得していったのかという、思索のさなかで生まれた物語です。
ここで、私は「あなた」という言葉を用いさせていただきます。
この「あなた」は、まさにこれを読まれている「あなた」であるとともに、その時、その場所を生きたかもしれない、普遍的な存在としての「あなた」です。
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森の中で住んでいたときの「あなた」は、自分といえるようなものはありませんでした。
こういうと、みなさんの中で異論が出てくるとは思いますが、あとの話を分かりやすくするためですので、ご了解ください。
自分をもたなかった「あなた」は、あるとき、突然「自分」を持ったのです。
森の中で生きていたあなたは、肉食を知ることで、大脳が発達しました。
大脳の発達は、それまで持たなかった思考能力をあなたに授けることになりました。
さて、この思考能力ですが、これが私たち人類の祖先たちには、とても厄介なものでした。
思考能力がなければ、なにも悩むことなく、ただ生き、そして死ぬだけでした。
それはある意味、とても幸福なことかもしれません。
生きていること自体が夢幻のようなものです。
ある人たち(つまり仏教関係)は、これを得ること(悟りとか、達観とかいう言葉に示されるもの)が幸いだと考えているようですが。。。
この思考能力が、私たちの祖先たちにどんな事態をもたらすことになったか、想像できません。
思考能力というのは、諸刃の剣です。
それは世界を切り開く武器となる一方、破壊をも招くものなのです。
自分というものを突然持ったあなたは、とても不安でなりませんでした。
自分を持たなかった頃は、あなたは自然の一部であることで、なにも悩まずに生き、そして死ぬことができたのです。
しかし、自分を持ったとたん、あなたは突如、自然からまったく切り離されてしまいました。
それまで親しかった自然は、あなたに対して冷淡になり、ときに脅威となったのです。
それはさながら、エデンの園を追われるアダムとイブのような青ざめた心地です。
あなたは、森を抜け出し、草原に逃げだしました。
しかし、草原のどこを走っても、どこにもあなたが落ち着く場所はありません。
そうして、とうとうあなたは、地面に伏し、縮こまってしまいました。もうどこにも行けない。一歩も足を進めることはできない。
それからどのくらいたったことでしょうか。
草原の片隅でただ縮こまっていたあなたは、あなたのうちから、それとも、あなたの外からだったのでしょうか。
そこが、はっきり分かりませんが、あなたにこうささやきかける声を聞いたのです。
「わたしは、あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるものである。
あなたは、わたしの代わりにあまたのものを生きるために、あまたのものから分かたれたのである。
さあ、立て。
そして、わたしに代わって、あまたのものを治めよ。
あなたが、あまたのものをよりよく生きれば生きるほど、わたしは、あまたのものをおおいに生きるものとなるであろう。」
さて、この声の主とはいったい誰でしょうか。
「神」という人もいるでしょうし、いや、自分の中の無意識の自我の声だ、という人もいるでしょう。
いずれにしても、この「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」の本質とは、自身と対等なものを持たぬ、永遠に孤独な存在だということです。
この自身と対等なものを持たぬ、永遠に孤独な存在が、思考能力をもてあまし、自分というものの存在にうろたえている、あなたの中に突如訪れたのです。
いやじつは、これはもともとあなたの中にもとからあったものだったかもしれない。
自身と対等なものを持つあなたの内側には、この自身と対等なものをもたぬ永遠に孤独な存在があったのです。それが、突如、あなたの外に出てきたというべきでしょう。
統合失調症の人のように、自分が二つに分裂したものでしょうか。
いったん自分の外に出たもう一人の自分が、やがてさまざまなものと結びついて、神のような存在へと統合されていくことになったのです。
あなたの外に現れた、もう一人のあなたは、あなた自身に新たな運命をもたらしました。
あなたは、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」によって、あなたのより自身であるものを生きることと引き換えに、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」からあなた自身をおびただしく奪われることになったのです。
「神」とは「名」であるに過ぎないことを、中世の唯名論者オッカムがいみじくも明らかにしています。
神というのはただそういわれるのに過ぎない。
わたしたちが自分の都合の部分で、そう勝手に呼んでいるだけです。
わたしたちは、全知全能なる神、善なる神という言葉に陶酔してしまって、神という言葉で隠されてしまっている、神なる存在のもう一面について分かろうとしてこなかったのです。
それは、神はときに悪魔でもある、ということです。
宗教は、神を絶対化するために、悪魔という存在を創造(捏造)し、不都合なことはみな悪魔のせいにしてきたのです。
ついでにいうなら、悪魔という存在を作ったがために、人類は無益な戦争を繰り返してきたというべきかもしれません。
じっさいは、悪魔などいないわけで、悪魔がいなければ、悪もまたないことになり、また、悪がなければ。。。戦争の理由なんて、まったくなくなるのです。
浅知恵で悪魔など作り出したおかげで、人々は互いを傷つけ合うことになったのです。
また、善なる神、全知全能なる神というのは、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」が、あなたを生きるために創造したもの、と言うこともできるかもしれません。
しかし、そういうものにいち早く気づいた人間もいたはずだ、と私は考えます。
もし、本当に人間の災いの根源である、この「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」と対峙しようという人間がいたとしたら、それはあの古代の四大思想家ではないか、と。
すなわち、孔子、シッダールタ、ソクラテス、イエス。
この四人に共通すること。
それは、互いに対等なものどうしを生きる、ということです。
これこそが、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」に唯一勝つことができるものです。
なぜなら、まさにそれこそが、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」に欠けているもの、つまり唯一の弱点なわけです。
この弱点のゆえに、「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」は、互いに対等なものどうしである「あなた」を生きることを欲したのです。
この「あなたを超えてあなたを生きる、あなたの自分であるもの」の情念の底にあるのは、自身と対等なものを持たない、創造者であるがゆえの、計り知れない深い孤独です。
なんとなく「神」の文脈で語ってしまったような気がしますが、「神」を別の言葉に読み替えてもいいと思います。
自身と対等なものを持たない自分。
じつはそれは、図らずも実存主義が扉をこじ開けたものだったのです。パンドラの箱を。。。
そうして、あなたの歴史が始まったのでした。
雷が大地に落ちる音におびえていたあなたは、聞いたのです。
「わたしは、あなたをあらかじめ息づくものとなろう。さあ、立て。そして、天から落ちてきた火を取ってくるがいい。その火は、あなたとわたしとの契約の印である。わたしは、火を通して、あなたをあらかじめ息づこう。あなたは、火を通して、わたしからあらかじめ息づかれることで、あなたの強くあるものを生きるのである。」
あなたは、雷が落ちたところに行くと、そこは一面焼け野原になっていて、まだところどころに火がくすぶっていました。
あなたは、また聞きました。
「この火を取れ。そして、それを、あなたが住まいするところの真ん中に据えるのである。わたしは、火を通して、あなたをより聡くあるものに導き、はぐくむであろう。」
また、あなたは、聞きました。
「わたしは、あなたを限られなく創造し、在らせることにしよう。さあ、石を互いに打ち合わせよ。それは、ものを切り裂くものとなるであろう。」
こうして、あなたは道具を用いて、生活をするようになりました。
また、あなたは、聞きました。
「わたしは、あなたを深く満ち足らせることにしよう。」
あなたは、土を捏ねて、器をつくると、それで水を汲んだり、煮炊きに用いたり、なにかを貯蔵するのに使用したのである。
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