限られたからだ、永遠のからだ | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 東日本大震災では、老若男女を問わず、じつに多くの方がなくなりました。

 このことを思うとき、今が若いからまだ死のことを考えなくてもいいとかはないのだな、ということを実感させられます。

 みないつ何時、人生が終わるときが来るか分からないのです。

 ついさっきまでピンピンにしていた人間が突然、帰らぬ人になることもあります。

 そうして、死は誰にも必ずやってくるのです。

 だからこそ、人は、永遠のものにあこがれを抱いてきたのでしょう。


 この限られた命を前にして、いっさいの営為は無意味のようにさえ思われます。

 哲学においても、そうです。どんな哲学も、この限られた命に対して、答えることができるものは、まったくありませんでした。

 限られた命に対して、なんらかの答えを与えてきたのは、伝統的に太古の昔より宗教の役割だったのです。


 この限られた命をまっすぐに見つめた哲学者こそ、存在の学を提唱するマルティン・ハイデガーです。

 それは、フッサールにおいて括弧に入れられた、私の認識をメインに据えようという哲学です。

 客観的に私に捉えられた現象そのものではなく、この自分というものを現象的に生きる、この私自身こそテーマにしていこう、ということです。

 彼の哲学は、ときに無神論的実存哲学というくくりに入れられることがあります。

 しかし、彼自身はあくまで、存在の学に、こだわり続けました。


 彼の主要なテーマ、それは時間です。

 時間とはいったいなんでしょうか。

 われわれが生きる時間というのは、地球の歴史から見れば、まったくないに等しい。

 そういう意味で、刹那の時間というものをわれわれは生きていると言えるでしょう。

 しかし、彼は、そういう時間以外に、個々の時間というものがあるということを主張するのです。

 楽しいとき、人はそれを実際の時間よりも短いと感じ、つらいとき、それをとても長いと感じたりしますね。

 あの感覚のことです。

 つまり、誰もが共有している時間ではなく、個々に生きられた時間こそが大事だと、彼は考えるのです。

 末期がんの患者が、残された時間を精一杯に生きるとき、それは、おそらくどんな時間よりも充実しているものでしょう。

 通常の一時間が一日と等しいものになる。

 楽しいときに短く感じる、つらいときには長く感じる、というのとはまったく反対の感じ方かもしれませんが、ようは感じ方なのです。

 この場合、一時間が一日に等しく感じるというのは、それだけ充実しているということです。

 楽しいときに短く感じるのと同じことを表しているのです。

 いっぽう、ただ生かされるままにだらだらと延命行為をされているのは、つらいことだと思います。

 それは充実しているのとはまったく異なるからです。

 いずれ来る死の時期を引き延ばしにされているだけですから、それは死刑の恐ろしさがずっと続いている状態なのではないでしょうか。

 私なら、ただ死の時期を引き延ばされるだけの延命行為は、望みません。

 

 ハイデガーは限られた命をより自分らしく生きることを提唱します。

 人生はみな限られている。ならば、それをどのように生きようと、基本的に自由なのです。

 自由に自分の人生を生きる、それは限られた命の所持者であるわれわれの生の必然です。

 そして、自分の限られた生を大切に生きることこそ、永遠の時間を生きることなのです。

 

「あなたは、

あなたの限られたからだを、あらかじめ生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「強くある時間」を生き、


あなたの限られた耳を、高く生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「聡くある時間」を生き、



あなたの限られた脚を、限られなく生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「とらわれなくある時間」を生き、



あなたの限られた肩を、深く生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「豊かくある時間」を生き、



あなたの限られた背を、堅く生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「貴くある時間」を生き、



あなたの限られた肉身を、一に生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「重くある時間」を生き、



あなたの限られた目を、あまねく生き抜くことを通して、

かけがえのない、あなただけのより「広くある時間」を生きるのである。」