今回、哲学ブログを休みます。ちょっと個人的にしんどいことがあって(^_^;)
お詫びに、昔、書いた哲学的コメディをお楽しみください。
「くわえる」
これは去ること五年ほど前、私が出合った私の哲学の師の話である。
先生はいつも路上のど真ん中にちょこなんと座り両手を前について、小首を右か左のどちらかに傾げ、まぶたを閉じて口元をきゅっと結んでいる。
自転車が来ようが、自動車がそばを通ろうが、いっこうに構わないのだ。
なにしろその姿は哲学大先生にふさわしく、相手から先生のそばを迂回させる威厳を保っている。
先生はこのゆえに町に有名を馳せていて、誰も先生のことを知らぬ者はいない。
この大先生はいつもなにかを瞑想している。
それはかの古代ギリシャのアルキメデスをほうふつとさせる。
我らが先生はさだめしどのようなことを瞑想しておられるだろうか。
人類の補完計画。世界の大改造計画――。
いや、先生、ちょいっとなにかが気になりだして急に目を開けると、とぼとぼと歩き出した。
先生の前に白衣の調理姿のおばさんがニッコリとした。
おばさんは地面に小皿を置くと、そこに冷めた鳥の唐揚げをのせた。
先生、鼻をぴくぴくさせ、口のまわりを舐め回すと「ニャン」と、いきなり皿の唐揚げに食らいつく。
「ニャン」とは先生とその門下の間で使われる合い言葉だ。
鳥の唐揚げは先生の大好物。油も適度に染みてタンパク質もたっぷりだ。
その豪快な食べっぷりというと、ただただ感心させられるばかりだ。
ものを食べるときはこう豪快に食べなくてはならない。
ただ義務のように食べるのや、スズメのようにちょこっとずつ食べるなんて、食べる礼儀に反しているわけだ。
ものを食べるときはうまそうに思いっきり食べなくてはならない。それが食べられるものに対する礼儀なのだ。
この先生に教えられるところがたくさんあるが、私が見聞きした先生の周りで起こった出来事を要約して、ここに紹介したい。皆さんは先生の偉大さにきっと気づかれることだろう。
「先生え、哲学とはなんですか。お教え下さい」
先生の弟子が訊いた。
すると先生。
「つまり、哲学とは、ムニャムニャムニャムニャのニャンだ」
弟子。
「とても素晴らしいお言葉だと思います」
弟子はいちいち小首を振ってうなずいて感心しながら、先生の元を去る。
自分の弟子の行く後ろ姿に先生、感慨深げに、
「問うこと、これ素晴らしいや。哲学はまず問うことから始まり、問うことで終わる。
どこにも答えがないのが、これ、哲学のゆえんだ。こう言った先人がいた。
学びて時にこれを習う。よろこばしからずや。友遠方より来る。またよろこばしからずや」
鳥の唐揚げを揚げることを生業としている人たちに対しても先生はとても温かい目を注いでいる。
人は社会的な身分や境遇で区分けされるものではない。大事なことはそのものが何をしているからだ。
自分のことだけを考えているものは自分のごく回りの狭い世界の住人であって、ちっとも偉くもなんでもない。
人はどれだけ多くの人のことを考えられるか、それがその人の大きさになるのだ。
先生はだから庶民の生活を覗くのがとても好きである。
先生がどれだけ大きな世界を持っていられるか、こんなところからも分かると思う。
街角の小さな食堂の裏口に先生はとことことやってくると、その出入り口の角に頬をすり寄せて(先生はそこに働く人たちに抱かれる愛着を、よくそのように頬をすり寄せることで示される)、すぐそばで流しで洗い物をしているおじさんの横顔をにんまりとして見上げている。
そのそばの芝生のよういなった空き地で、先生が弟子たちを集めて行った講義の模様を紹介する。
そこは古代ギリシャの学堂さながらに先生と弟子たちとは太陽の光線の降り注ぐ下、高邁な命の真理について語り合ったのだった。
眠そうにして先生は、そばで弟子が食べ物を食べているのを見えているのか、見えていないのか、自分だけ食べずに平気でいる。先生はとても弟子思いなのだ。
先生だからといってけっして弟子たちの前で偉ぶったりはしない。
この包容力こそ先生に弟子たちが大勢慕ってついてきている理由だろう。
「ムニャムニャムニャ。フワフワフワー! ブツブツブツ。ほとけ。ほっとけ。ホットケーキ。おばさん、ホットケーキくれろー!」
それから先生はおもむろに人生の真理について語られる。
「ムニャムニャムニャのニャムサンボー。ニャムニャムニャムミヤーオ、フワー、(先生はあくびのように大きな口を開けられた)リャンギャーギョウ。ニャムニャムニャムニャアマイ(何枚)ダー、ブツブツブツ」
とそのとき食器を洗っていたおじさんが手を滑らせた。
「一枚割ったー、コリャコリャ」と独り言を言った。
弟子が先生に尋ねた。
「ニャマエ(名前)とはニャン(何)でしょうか」
すると先生、あいもかわらず目を閉じ小首を傾げ、口元をムニャムニャさせて、
「あっちではこう呼ばれ、こっちではこう呼ばれる。つまいそういうものニャ。
どれも自分に変わりはない。では弟子よ。あっちとこっちでお前は違うのかニャ」
弟子、目を輝かせて、
「どっちも自分です。あっちもこっちも関係ありません。ただ私に対する相手の態度が違います。」
この弟子はあっちではムサシと呼ばれ、こっちではコジロウと呼ばれていたのである。
先生、口元をニンマリさせ何度もうなずいて ,
「そうだニャ。つまり自分は同じ自分だが、相手はおんなじとは見ていないんだ。これがニャマエ(名前)というものなのだ。
自分は一人だが、他のものにとっては無数にあるわけなんだ。だから無数に物事というのは名付けられて、解釈されるのニャ。
そんな無数にある他の解釈やニャマエに振り回されてはいけないんだニャ。大事なのは自分にとってどうかニャンだニャア。
じつはそれが普遍的なニャマエ、ロゴスっていうんだ。
そのロゴスっていうのは誰も名付けられないものニャンだ。だけどみんなそれぞれのニャマエで呼んでるものニャンだ。ニャン」
先生の最後の「ニャン」が力強く響いた。
私もそばで先生のお話を伺って大いに感激した。
別の弟子が先生にお尋ねした。
「先生。僕は異性を見るとどうも下半身の方がムズムズとしてきて、
自分の意志とはまったく別に勝手に自分のカラダが動き出してしまうのです」
下を向いて顔を赤らめながら真剣に訴える弟子に、先生は逆にこう問いかける。
「つまりどうにもならない自分がある。このどうにもならぬ自分が勝手に自分を突き動かす。
もしかしたらこの自分は本当の自分ではなくて、仮のものではないか。そうだとすると、本当の自分とはどこにあるのだろう。
ここにないとすれば、どこか別の場所にあるのだろうか。これは大問題ニャア。問うてもけっして解き明かせぬ問題ニャ」
また別の弟子が自分の見聞きしたこととして、先生に話した。
「先生、私はある家の住人のところによく出入りしているのですが、ここのいつも綺麗な奥さん、バアーンって、やるんですよ。
奥さん、出さないと損な気がする。カラダに悪いからって旦那さんに言っているんです。外ではちっともやらない顔をしてね。
スカンクは可愛い顔をして、いざ身の危険を感じた時にはバーンっと強烈なのをぶっぱなつらしいですね。相手はもう堪らない。
鼻がひんまがってしまうんだって、バーンってね。この奥さん、ある時はひどい便秘でつらそうにしているんです。
かといえば、今度は下痢で。可愛い顔をして可哀想だと思うんです」
先生も含めて一同大笑いした。
「それがニンゲンという奇妙な動物なのだ。外側の自分と内側の自分とを使い分けているのだニャア」
と先生。
私も思わずもらい笑いをして聴いていた。
弟子がまた訊いた。
「先生、私がよく遊んでもらっている家に行く途中、いつものようにある家の窓の前を通りかかったときです。
二十歳くらいの男の人が何か一所懸命にしているのが見えたのです。
彼は裸になった女の人が写っているビデオを見ながら、自分のカラダの一部を出して手でさかんに動かしているんです。いったい彼はなにをしていたのでしょうか」
先生、小首を傾げたまま、じっとして答えない。先生といえどもすぐには答えられない難問というものがあるのだ。
でもあまり答えないので、弟子は、先生は眠ってしまわれたのでは、と思った。
でも先生はずっと長考されていたのだ。
やがて先生は、驚くべき真理の言葉を語られた。
「弟子よ。よくぞ、ある重大な問題に気づかれたニャア。
これはまさにわれわれを突き動かしているものの正体を明らかにしているニャ。
それは、美なのだよ。
分かるかね。われわれを動かしているものの正体とは美なのだ。
美が事柄を正しいものにし、価値を作るのだニャ。真実と言われるものはみな美しいのだ。
そして、これがニンゲンという生き物の悲しいサガなんだニャア。
われわれを動かしている正体が美ならば、真実とはニャンだ。正しさとはニャンだ。真実は必ずしも美しいとは言えない。
むしろまっさらニャ。美しくもなんともない。
また正しいことと美しいこととは一致するとは言えない。
正しいのは美しいからなのではなく、ただただ正しいからなのにほかならない。
また正しいものは美しいということも言えない。
では美そのものはどうして美となるのだろう。
美とは成長のロゴスなのだ。
生きるものはみなよりよく生きようとする。つまり満足しようとする。それが美の正体ニャ。
満足だからそれが真実だとか正しさだとかいうこととはまったく無関係なのだ。
そしていいかニャ。
ではなにが満足だろう。満足の正体。それはわれわれのカラダニャ。
われわれはわれわれを取り巻く世界を自分のカラダを通して感じているんだニャ。
世界というのはわれわれのカラダで出来ていると言ってもいいんだニャ。
これはわれわれの心が作り出している仮想現実ニャ。けれどこの仮想現実がじっさいの世の中を作っているのニャ。
さて、さっきの男のことに話を戻そう。彼は何をしていたか。
彼は自分のてのひらに異性との交わりを想い描いていたのだニャ。
彼を動かしているもの、弟子よ、おさらいの意味で答えてもらおう」
弟子は目を潤ませて、こう絶叫した。
「はい、それは美です!」
「その通り、美ニャ。でも美は悪くもなんでもない。ここで重要なことはどうよりよく生きるかだ。
それは正しい美、真実の美となるものだと私は考えている。生きていることの意味をしっかり自分自身に問いたまえ。それがそなたたちの生きる意味づけになるだろう」
かくして偉大なる先生の講義は終わった。
弟子たちは四方に散っていった。
先生はあれほどの迫真の講義をしたあとの疲労のためか、とうとう寝入ってしまった。
じつはさっきの講義だって、はっきり目が覚めている状態でしたとは言えなかった。
頭は半分以上眠っていたのだ。それほど今日はよく晴れて気持ちのいい一日だった。
それからどのくらいしたことだろう。突然、先生のそばでギャーギャーいう唸り声を聞いた。
重いまぶたをようやく持ち上げると、力の強い弟子が弱い弟子に飛びかからんとしているところだった。
先生はぱっと目を開けると、二人の方に猛ラッシュした。
逃げる弱い方の弟子の足に食らいつこうとする力の強い弟子の足に、さらに先生が飛びかかった。
それぞれ相手に取り付こうとして先生を含めた三者が宙に舞った。これは壮観だった。
私はまったく感激させられてしまった。あたかも空中に輪を描くかのようだ。
地面に降り立った三者。弱い者いじめをした方の弟子は先生に蹴散らかされて退散し、
弱い方の弟子はまだやられるのではないかと、そのままどこかへと逃げ去った。
先生だけがそこに残った。私は先生に拍手を送った。さすが先生。
そうかと思えば、可愛がってくれている青年から大好物のものをもらうとき、
「ワーイッ、へへへ」と青年の手に飛びついて、まったく無邪気そのものになる先生だった。
さてわれらが先生もわれわれの前から去るときが来た。弟子たちを集め、自分がみなのところから旅立つことを告げたのだ。
「弟子たち、諸君。私は自分の人生を完成させることの意味を諸君らに示すため旅に出る。
私が目指すのはあの向こうにそびえ立つ山(じっさいは十二階建てのビル)の、てっぺんに立っている棒のような突起だ。
あそこに私の生の痕跡を残そうと思う。なんじらも己の生の痕跡をどこかに残さんことを願う。さらばニャ」
弟子たちは最初先生が自分たちの前からいなくなることを悲しんだが、
そのうち眠気が襲いだしたのかあるものは眠ってしまい、またあるものはそこにやってきたスズメに気を奪われて、すっかり先生のことを忘れてしまった。
先生は、何度とビルの途中階で寄り道をしては、このビルの住人から慕われ続け、そのたびに先生を引き止める彼らの間に滞在したので、目指す場所にはなかなかたどり着けなかった。
けれど非常階段に出ると、ふと自分がなんのためにここに来たのかを思い出して、彼らに別れも告げずに先生は再び出発し、さらに上の階を目指した。
先生がようやく目指す場所に着いたのは弟子たちと別れて、早一週間が過ぎたころだった。
このビルの一階に来てからは五日が経っていた。
屋上に立つアンテナが目に入ったとき、先生は歯がむずむずとしてくるのを覚えた。
先生はもう休む間もなく、その上に立つアンテナに真っ直ぐ向かって歩いて行くと、よじ登り始めた。
何度と滑り落ちそうになりながら、ようやくアンテナの横に出ているところに飛びつき五体でしがみつくと、さらにその先端に徐々に近づいていった。やがて先生の口の先にアンテナの先端が当たると、先生は最後の力を振り絞って先端を捉え、自分の口の中にくわえ込んだ。
その勇姿は、あたかもシマウマを倒してその肉に食らいつくライオンに似ていた。
その時、そのアンテナの下のビルのすべてのテレビは、ときならぬ画像の乱れを生じていた。
※この大先生は誰のことかは、もうお分かりですね。。。
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