物に取り巻かれたからだ | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 ショーペンハウエルに次いで、ヘーゲルの哲学への批判の二番手として、フォイエルバッハを取り上げたいと思います。

 彼は、いわゆるヘーゲル左派と称するものに属した人間で、唯物論的な観点から、歴史というものを考えました。


 われわれを実質的に支配しているものとはなにかと考察したとき、彼はそれを物そのものである、と結論しました。

 ヘーゲルは歴史の精神を説きましたが、それは歴史の表層に過ぎない。歴史の深層は物による支配であって、物を通して、社会は支配され、また精神もまた支配を受けていると捉え、物からの解放を唱えたのです。

 ただし、どのようにして物からの支配を脱却するか、そこは明確ではありません。

 しかし、物から支配を受けている、ということをまず把握することが大事なのです。

 そこから、いかに物から支配されないで、精神を保つことができるかを考えてゆく。

 それは社会科学的な視点といってもいいでしょう。

 

 それまで哲学はいわゆる精神論でした。

 すなわち、ものの考え方で終始していたわけです。

 このように考えれば、もっと心が自由になれる。このように見ると、世の中がもっと理解できるようになる。

 それは広い意味での理想主義といってもいいものです。

 ただその理想主義が現実を変える原動力になることもまた間違いのないことです。

 民主主義は、まさに理想主義が生んだ政治システムなわけです。

 

 しかし、理想だけでなく、現実をもっと見つめ、なにがいけないのか。われわれが生きるうえで、なにが障害になっているかを解き明かすことは大事です。

 それが社会ならば、社会科学的な視点が必要になってくる。

 社会科学的視点で見たとき、われわれを支配しているものは精神よりも物である。物がわれわれの精神を支配している。物を分析することこそが、われわれを支配しているものから解放することである。

 それはたんに哲学というよりも実践的な場面をわれわれに提供することになります。

 とくに、資本主義が翳りを見せている今日のわれわれに対して。


 つまり物からの精神の解放。

 なにが大切かを、今われわれは懸命に考えている最中なのだと、私は思います。

 哲学が近年ことに関心が寄せられるようになっているのは、そのことの証です。

 またスピリチュアルなものに対する人々の関心もまた高くなっているのも、おおいにうなずけます。


 しかしじっさい、どのようにしてわれわれは、物の支配から解放されるのでしょうか。

 精神が物から支配されているのならば、物の支配から解放するには物理的手段しかない、ということになります。

 ここが唯物論的な考え方です。精神論だと、あくまで精神の変革を促すことで終わってしまうでしょう。

 精神の変革だけではほとんどなにも変わらない。もっと具体的実際的なことを企てようとするところに、唯物論的なものの生き方があります。


 ところで、唯物論とはなんでしょうか。

 それをあえて考えてみる必要があると思います。

 とかく精神論に反するものだとする見方がなされます。

 宗教を否定するものだ、という見方が歴史的にされてきたことは、私もよく承知しています。

 しかし、私は唯物論もまた精神論だという見方を持っています。

 これまでの精神論だけでは現実を解決することはできない。

 もっと具体的実際的なことに即して、問題の解決に当たらなくてはならない。

 これこそが、唯物論的視点の基本態度なのだと私は思います。

 つまり唯物論とは、現実の世界を物の側面から考えてみる、ということなのです。

 それは精神を否定するものではありません。精神が物から知らず知らず支配を受けていることを認識してゆこうということです。

 思う、この自分は精神なのだから、どんなに考えても精神が先にあるわけです。

 ただ、物はこの私の精神に先んじてあり、私の精神の外から私の思惟に介入しているということもまた、動かしがたい事実としてあるのです。

 そうしたことからも、唯物論的視点は精神論を補う意味からかなり重要な意味を担っているという気がします。


 唯物論ということで論じましたが、無神論ということでも同様なことが言えます。

 それはあくまで、そのように考えてみる、という科学的な手法なのです。

 唯物論が精神論の一種なように、無神論もまた有神論の一種であって、ここではなるだけ先回りしないように気をつけたいのですが、無神論も有神論もともに彼らが想定する神、ないし宗教の枠を大きくはみ出したところに根ざしているのです。彼らが根ざしているものについては、この近現代の哲学・宗教を論評したあとに予定していますので、ご期待ください。


 では、詩にこれまでのことを託します。


「からだをもてるあなたは、

あまたの血であるものから、あらかじめ息づかれることを通して、あなたの「強くあるもの」を生き、


耳をもてるあなたは、

あまたの胸であるものから、高く導かれ、はぐくまれることを通して、あなたの「聡くあるもの」を生き、



脚をもてるあなたは、

あまたの腕であるものから、限られなく創造され、在らされることを通して、あなたの「とらわれなくあるもの」を生き、



肩をもてるあなたは、

あまたの内腑であるものから、深く満ち足らされることを通して、あなたの「豊かくあるもの」を生き、



背をもてるあなたは、

あまたの皮膚であるものから、堅くかばわれることを通して、あなたの「貴くあるもの」を生き、



肉身をもてるあなたは、

あまたの骨であるものから、一に支え持たれることを通して、あなたの「重くあるもの」を生き、



目をもてるあなたは、

あまたの舌であるものから、あまねくおし拡げられ、味わわれることを通して、あなたの「広くあるもの」を生きるのである。」