内なる自由のからだ | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 デカルト的合理主義、イギリスの経験論、そしてジャン・ジャック・ルソーの自由を融合して、コペルニクス的転回といわれる思考を展開したのが、ドイツのイマヌエル・カントです。

 合理主義、経験論、自由の中で、彼の思想のもっとも中核をなすのは、自由ではないか、と私は考えます。

 ルソーの代表的な著書である「エミール」を大興奮の中、読み耽ったという彼は、自由という思想に限りない可能性を見出したのでした。

 それは、思考をそれまでの絶対的な世界から解放したのでした。

 それまで、世界とは、誰にとっても同じ姿で存在する、永遠の世界でした。

 そこに、彼は、経験論によって導かれたこと、つまりわれわれは世界について理解しない。ただ経験するだけだ、ということを導入することで、絶対的な世界に替わって相対的な世界を自身の思考の中心に据えたのです。

 すなわち、世界は誰にも同じようには存在しない。個々の人間において存在するだけだ。

 個々の人間において、世界がどういう存在であるかが重要である。

 それは、コペルニクス的転回と呼ばれる、哲学における大転換です。

 貴方にとっての世界は、私にとっての世界とは異なったかたちで存在していることを認めよう、ということです。

 これは、世界和合の思想に結びつくものではないでしょうか。

 異なった世界観の人たちが、それぞれの世界観を認め合うこと。

 今日の国連につながる、世界平和の考え方を提起しました。


 自分にとっての合理的な世界理解。それはまた、自分自身を自分が定義づけることでもあります。

 自分はかくあるべきである。それが自分の正義。

 これを、彼は、「良心」と呼びました。

 自分の中の「良心」は、自分をかくあるべき自分へと導くのです。

 この「良心」は、他のなにものからも束縛を受けることはありません。

 それは自由なる自分です。

 つまり、内なる自由なるからだを、彼は自身の思惟の中で、手に入れたのでした。

 自分自身を自ら決定して生きる。これは、20世紀の実存哲学につながるものです。


 ただ、相対的な世界理解と言っても、人それぞれとはかならずしも言えないのではないでしょうか。

 というのは、われわれは互いに同じ人間どうしなわけですから。

 相対的なものどうしの間には、同じ人間としての共通の部分もある。

 この共通の部分こそ、互いが連帯できるところであり、互いを結びつける絆なのです。

 その絆を、彼は、経験論に基づく自己完結的な視野と、デカルト的な合理的思弁による「批判」によって築こうとします。

 すなわち、自分が理解したことに対して、それは正しかっただろうか、と反省すること。

 それは、自分自身から一定距離、はなれたところから、自分自身を批判、検討を加えるということです。

 この批判、検討が、自身を互いに異なる世界を持つものどうしとの連帯へと導くのです。

 

 このことを詩に表しましょう。


「からだをもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なるからだであるものを生きながらも、

おのおのが、自身のからだであるものを批判、検討することによって、

互いに異なるからだであるものどうしと、一なるからだであるものを生き合い、


耳をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる耳であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の耳であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる耳であるものどうしと、一なる耳であるものを生き合い、


脚をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる脚であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の脚であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる脚であるものどうしと、一なる脚であるものを生き合い、



肩をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる肩であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の肩であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる肩であるものどうしと、一なる肩であるものを生き合い、



背をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる背であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の背であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる背であるものどうしと、一なる背であるものを生き合い、



肉身をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる肉身であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の肉身であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる肉身であるものどうしと、一なる肉身であるものを生き合い、



目をもてるあなたと、あなたの同胞とは、

互いに異なる目であるものを生きながらも、

おのおのが、自身の目であるものを批判、検討することによって、

互いに異なる目であるものどうしと、一なる目であるものを生き合うのである。」