絆であるものからの自由 | 同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

同胞たる、おっとりとした頬を求めて!

世界とは、貴方について書かれた書物である。

 中世の人たちと、ルネサンス以降の人たちの精神上の大きな違いは、個人、ないし自由の思想ということに集約されることでしょう(あえてヨーロッパに絞っているのは、個人と自由の思想がまさにヨーロッパにおいて醸成されたからです)。

 中世の時代というのは、個人というものがなく、王から農民に至るまで、人は神の従僕とされてきたのでした。

 そして、人が求めるのは神から祝福されることでした。

 もちろん、現代を生きる人たちの中にも、熱心に神を信仰している人たちはたくさんいます。

 神から祝福される人生を送ることが、神を厚く信仰している人たちの人生の目標なのです。

 ただ、それでもやはり中世の時代と、現代とは、心の持ちようにおいて大きく異なるように思われます。

 現代において、個人というものが尊ばれ、個人の自由が求められてきたのです。

 その意味で、神を熱心に信仰するというのも、個人主義、信仰の自由につながったものだと言えるでしょう。


 さて、中世の終わり、また近世の始まりにおいて、いったいなにが起こったか。

 ルターらによる、教会、ないし宗教そのものに対する、多くの人たちを巻き込んだ、改革の嵐です。

 中世においては、人々は教会という導き手を通して、神に触れ、教会を通して、神に奉仕していました。

 今日と違って、文字が読めない人が大分を占めていた当時のヨーロッパにおいて、教会が聖書の言葉を人々に説き聞かせていたのです。

 しかし、神への導き手である教会が、むしろ神への信仰の妨げるになる事態が生じました。

 免罪符の売買。

 教会から免罪符を買えば、罪が許される、という行為が、まじめに信仰しているある人たちにとって、とても許せぬことになったのでした。

 神との仲介者が堕落していて、どうして神と繋がることができるのか。

 神との仲介者である教会が、神への信仰を妨げるものになったのなら、もう神との仲介者というものはいらない。じかに神と向かい合えばいいのだ、と考えた。

 こうして、宗教改革と呼ばれる大運動が多くの人を巻き込んで、繰り広げられたのでした。


 ところで、神とじかに向かい合う、ということは、どういうことなのでしょうか。

 それまで教会は、神との仲介役を果していました。

 神との仲介役を持たずに、じかに神と向かい合うということはできることなのか。

 宗教改革者たちは、単純に聖書に基づけばいい、と人々に説きました。

 もっとも、その聖書をどう解釈するかで、信仰のかたちも変らざるを得なくなってきます。


 この宗教を見直そうとする運動は、じつは二つのうねりを持ったものでした。

 一つはルターが教会に対して諸侯を取り込んで民衆を指導したものであり、もう一つは、ミュンツァーが諸侯を除いて民衆の間に繰り広げたものです。

 すなわち、ルターが教会に対抗する勢力としての諸侯の力を利用して、<民衆は自分が教会の信仰かそれとも神と直接繋がる信仰のどちらを選ぶかは、自分が暮らす土地の諸侯の意思に委ねられる>としたのに対し、ミュンツァーは、信仰がどのようなものからも支配統治されるようなことがあってはならない、と教会勢力だけでなく諸侯勢力、さらにはそれを批判するルター派とも争ったのでした。

 おびただしい血が流され、結果、ミュンツァー派は滅び去って、ルター派が諸侯と結んで勢力を伸ばしてゆくことになりました。もっとも、その後もしばらく、教会勢力(カトリック)とプロテスタントの間で対立が続いて、その間に幾万という人間が死にました。

 なんというおぞましさでしょう。信仰のゆえに、殺しあうというのは。

 そのおぞましさを引き起こしているのは、確かに信仰の個人主義であり、信仰の自由でした。

 人は、自分の個、自分の自由のために、どんな非情なこともできるのです。

 そうして戦うことができたものは誉め称えられます。

 個人の信仰、信仰の自由を守ったものは信仰の英雄です。


 私は、いったい、なにを語ろうとしているのでしょうか。

 そう、中世という個人がなく、自由のない世界で、ことさら自身が出てゆくこともなく、互いに対等なものどうしであるものから、ただ奉仕されるままに穏やかに充足していたものが、個人が現れ、自由が見出された時期に、再び自身を拡大させ始めたのです。

 それは、世界の創造者なる「貴方」です。

「貴方」は、それまでの教会という、神に基づく対等なものどうしの絆に従っていたのです。

 しかし、神との仲介者である、互いに対等なものどうしの絆であるものがほころびだすと、「貴方」は再び、なにものにもとらわれず、貴方のからだであるもの、すなわち互いに対等なものどうしであるものを生き始めたのです。

「貴方」が、神に基づく対等なものどうしの絆にかわって、新たに得たのは、「個人」という思想であり、かつ最初は教会であった、互いに対等なものどうしの絆であるものからの「自由」の思想です。

 世界の創造者である「貴方」は、この「個人」と「自由」を通して、貴方のからだであるものをさらに激しく生きだしたのです。


 ルネサンスの光は、じつは、再び自身を拡大し始めた、世界の創造者なる「貴方」の光だったのです。

 次回からは、ルネサンス以降の思想家を取り上げます。