最後に取り上げる中世ヨーロッパの神学者は、1260年頃、ドイツに生れたマイスター・エックハルトです。
この名を知られている方もいるかもしれません。彼の思想は、現代においてますます再評価されています。
彼の思想は、「離脱」という言葉に集約されています。
これは、自分を空しくする、ということでは、仏教に想起させます。
じっさい、日本の仏教学者が、キリスト教の中に、この仏教的な考えを持ったものとして、マイスター・エックハルトを述べています。
さて、その「離脱」の考え方ですが、それがとてもユニークです。
おそらくは、カタリ派といった異端者の改宗活動(彼が所属するドミニコ会は、異端者の改宗のために組織されたところがあります)のなかで、彼独自に導き出した思想だったように思われます。
彼は、おそらく神そのものを問題にしたのではなく、神に対する信仰のかたちを問題にしたのだと、私は考えます。
それはどういうことかというと、正統的な信仰であろうと、異端的な信仰(むろん、正統と名乗っている側の言い分です)であろうと、信じる神は一つのはずである。
そして、その神においては、正統も異端もないはずである。
問題は、その信仰の仕方であって、信仰の違いから、同じ神をいただいていながら、互いに損ない合うのである、ということです。
これは、とても重要な視点です。
私たちの世界を見回してみましょう。
なんとこれまで、さまざまな考え方の違いで、争いあい、傷つけあってきたことでしょう。
じっさい、どうでもいいような理由から、人は互いを傷つけているのです。
なんとおびただしい命が、むだに奪われてきたことでしょう。
マイスター・エックハルトは、じつに大胆に、こう答えるのです。
われわれの信仰など取るに足りないことである。
大事なことは、われわれが神の中に生きる、ということである。
神を信じている、ということこそが、思い上がったことなのです。
どうでしょう。
神を信じている、といっているうちは、じつは、神を信じてなどいない。
むしろ、神を信じない、といっている方が、あるいは、神を信じているかもしれません。
重要なことは、神を信じている、ということではなく、神の中で生きる、すなわち、神に生かされている、ということなのです。
神を信じている、という心こそが、神を信じることの壁になっている、と彼は考えました。
そして、ただ自分を空しくすることだと、彼は主張するのです。
自分を空しくし、神から生かされるのにふさわしいものになること。
これが、彼が目指したことです。
だから、異端者に対しても、相手を非難するのではなく、受け入れる態度を取った、のかもしれません。
そこは、詳しいことはわかりませんが、そのような気がします。
いや、きっと、そうでしょう。相手を認めることが、相手を正しく導くことなんです。けっして、自分の考えを押し付けることではない。
そして、彼は、その思想によって、異端の疑いをかけられることになったのです。
しかし、その思想は、マルティン・ハイデガーなどさまざまな思想家から再評価されています。
自分を空しくすること、このことを貴方と、貴方の隣人の関係にもあてはめてみましょう。
貴方は、貴方の隣人に対して、自分を出しすぎてはいませんか。
貴方の隣人は、貴方が自分を出しすぎているので、貴方の中に入って行けなくなっているのです。
また、貴方の隣人もまた、貴方に自分を出しすぎているために、貴方を自分の中に入れることができなくなっているのです。
もし、貴方が、貴方の隣人に対して自分を出しすぎず、自分自身の中に、貴方の隣人が入って行けるスペースをとっておくことができたら、どうでしょうか。
また、貴方の隣人が、貴方に対して自分を出しすぎず、隣人自身の中に、貴方が入って行けるスペースをとっておいてくれたら、どうでしょう。
この両者がそれぞれそのようにできたら、貴方と、貴方の隣人とは、互いの中に住むことができるのです。
片方だったらどうでしょう。
一方は自分をなくしているが、もう一方は自分を出しすぎている。
これは、あまり良好な関係とは言えないかもしれません。
自分をなくしている方は、自分を出しすぎている方のいうままになっているのですから。
それは主従の関係です。
神という存在は、貴方の遠いところにあるから、主従の関係でも成り立つのです。
しかし、対等な人間どうしにおいては、不幸な関係ということになる。
神という存在を想定するなら、ここは、神を主なるものとしておくことで、互いに対等なものどうしは、互いに自分をなくし、相手を受け入れるで、互いがよりよく生き合う地上の楽園を創造することになるでしょう。
ナザレのイエスというのも、じつはそのことを念頭において、「天国は近づいている」と人々に語ったのだと、私は考えます。
さて、このことを詩に託して、このシリーズを締めくくることにします。
「あなたは、あなたの同胞から、あらかじめ息づかれようとしてはならない。
あなたの同胞から、あらかじめ息づかれようとすることで、
あなたの同胞から、あらかじめ息づかされなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、あらかじめ息づかれまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、あらかじめ息づかれまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、あらかじめ息づかれるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたをあらかじめ息づかせようとする、あらかじめなる存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、高く導かれ、育まれようとしてはならない。
あなたの同胞から、高く導かれ、育まれようとすることで、
あなたの同胞から、高く導かれ、育まれなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、高く導かれ、育まれまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、高く導かれ、育まれまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、高く導かれ、育まれるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたを高く導き、育もうとする、高き存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、限られなく創造され、在らされようとしてはならない。
あなたの同胞から、限られなく創造され、在らされようとすることで、
あなたの同胞から、限られなく創造され、在らされなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、限られなく創造され、在らされまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、限られなく創造され、在らされまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、限られなく創造され、在らされるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたを限られなく創造し、在らせようとする、限られなき存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、深く満ち足らされようとしてはならない。
あなたの同胞から、深く満ち足らされようとすることで、
あなたの同胞から、深く満ち足らされなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、深く満ち足らされまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、深く満ち足らされまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、深く満ち足らされるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたを深く満ち足らそうとする、深き存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、堅く庇われようとしてはならない。
あなたの同胞から、堅く庇われようとすることで、
あなたの同胞から、堅く庇われなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、堅く庇われまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、堅く庇われまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、堅く庇われるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、堅く庇わおうとする、堅き存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、一に支え持たれようとしてはならない。
あなたの同胞から、一に支え持たれようとすることで、
あなたの同胞から、一に支え持たれなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、一に支え持たれまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、一に支え持たれまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、一に支え持たれるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたを一に支え持とうとする、一なる存在だからである。
また、あなたは、あなたの同胞から、あまねくおし拡げられようとしてはならない。
あなたの同胞から、あまねくおし拡げられようとすることで、
あなたの同胞から、あまねくおし拡げられなくなるからである。
あなたは、ただあなたの同胞から、あまねくおし拡げられまいと努めなくてはならない。
ただあなたの同胞から、あまねくおし拡げられまいとすることで、
あなたは、あなたの同胞から、あまねくおし拡げられるようになるからである。
なぜなら、あなたの同胞は、あなたをあまねくおし拡げようとする、あまねき存在だからである。」
※次回より、ルネサンスから今日にいたるまでの哲学、宗教を取り上げて行きたいと思います。