中世ヨーロッパの末期に普遍論争というものがありました。
これは、神は普遍的な存在なのか、それとも神というのは名としてあるだけで、じっさいは個別存在であるか。
このとき、神は普遍的な存在であるとする側にはドゥンス・スコトゥスが立ち、一方、神は個別の存在であるとする側にはウィリアム・オブ・オッカムという神学者が立ちました。
神は普遍的な存在ではなく、じっさいは神は名としてのみあるのであって、神なるものは個々において存在しているのである、とする、この考え方を唯名論といいます。
神は普遍的な存在ではなく、名としてあるだけで、じっさいは個々においてのみに存在しているだけだ、というのはどういうことでしょうか。
普遍的に存在しているのではない、というのは、貴方と、貴方の隣人とでは、神の在り方が異なっているということです。
普遍的に神が存在しているなら、誰もが同じように神と向かい合わなくてはなりません。
しかし、神が個々のおいて別々にあるとしたら、誰もが同じように神と向かい合わせることは、不可能だということです。
これを貴方と、貴方の隣人について当てはめるなら、誰にも適合するような、一つの見方だけで、互いを理解しようとしてはならない、ということです。
いま貴方の目の前にある存在は、誰でもあるようなものではなく、ただ貴方に対してだけ存在しているのです。
そこは、貴方と、貴方の隣人だけが持つ、固有の世界です。
貴方と、貴方の隣人だけの、この固有の世界こそ、貴方が貴方の隣人とともに生きている場所なのです。
そして、貴方は、まさにこの、貴方の隣人との固有の世界から、生きられているといっても過言ではないのです。
このことを踏まえて、詩に表したいと思います。
「あなたは、固有のあなたの同胞から、あらかじめ息づかれることを通してのみ、
あなたの強くあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、あらかじめ息づかれることを通してのみ、
同胞自身の強くあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、あらかじめ息づかれることを通してのみ、
互いの強くあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、高く育まれることを通してのみ、
あなたの聡くあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、高く育まれることを通してのみ、
同胞自身の聡くあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、高く育まれることを通してのみ、
互いの聡くあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、限られなく創造され、在らされることを通してのみ、
あなたのとらわれなくあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、限られなく創造され、在らされることを通してのみ、
同胞自身のとらわれなくあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、限られなく創造され、在らされることを通してのみ、
互いのとらわれなくあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、深く満ち足らされることを通してのみ、
あなたの豊かくあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、深く満ち足らされることを通してのみ、
同胞自身の豊かくあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、深く満ち足らされることを通してのみ、
互いの豊かくあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、堅く庇われることを通してのみ、
あなたの貴くあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、堅く庇われることを通してのみ、
同胞自身の貴くあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、堅く庇われることを通してのみ、
互いの貴くあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、一に支え持たれることを通してのみ、
あなたの重くあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、一に支え持たれることを通してのみ、
同胞自身の重くあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、一に支え持たれることを通してのみ、
互いの重くあるものに生きられ合うのである。
また、あなたは、固有のあなたの同胞から、あまねくおし拡げられることを通してのみ、
あなたの広くあるものに生きられ、
あなたの同胞もまた、固有のあなたから、あまねくおし拡げられることを通してのみ、
同胞自身の広くあるものに生きられ、
あなたとあなたの同胞とは、固有の互いから、あまねくおし拡げられることを通してのみ、
互いの広くあるものに生きられ合うのである。」