エミシの森 -160ページ目

エミシと森と山と信仰

森が、山に変わった時・・・

いや、姿形が変わったわけではない・・・これには前置きが必要なようだ。


現代人にとって森と山は、あきらかに違った概念である。


木々の生い茂ったところが森であって、それが山のように明らかな山頂を持つような円錐状の容姿で無くとも良い。

山の条件は、山頂があることに尽きる。


では、ここで少し考えてみていただきたい。


山が森を包括しているのか。

森が山を包括しているか。

それとも別々であって包括しあわないのか。



「かつて広大な森がこの国を庇っていた」と先に「エミシの森」で書いた。

その観点からすれば、山は森に包括されていた、と言える。

しかしその頃、山という概念はなかった、としたら、包括のしようもない。


「縄文の森」はあるが、「縄文の山」は、私の知るところでは無い。


エミシがまだ民族、あるいは部族や支族として、他の民族との混血が無かった頃、少なくともその時代、エミシの人々に「山」という概念はなかった。


森は、“「静かなる霊の鎮まる場」の意”であったと、これも先に「エミシの森」で書いた。

ここでは、現代人の想いがちな無肉体、有意識体という概念から分離するために霊を精霊とする。

その精霊の正体のひとつは、全ての生命体を土に還してくれる何者かである。

現代人は、それを微生物と呼ぶ。

もちろんそれだけではない。


エミシの全ての人々が、森の精霊を感じることはできなかった。

特別な感覚、人々の感覚を超越した存在、それがシャーマンであり、彼らは精霊を感じ、交信しうる存在だった。


シャーマン、本来は、ツングース語のシャマンだ。

ツングース、彼らはバイカル湖から大型の動物を追って氷の白い世界をはるばる今の日本にやって来た。

氷の白い世界が消えてからは、舟で渡って来た。

そのシャーマンが森の精霊と交信する場に、のちに「杜」という漢字があてられたのだ。


森は、「もり」、そして「しん」と読む。

「しん」は、「深」を思っていただければ良い。


山は、「さん」、「やま」、稀だが「せん」とも読む。

余談だが、「せん」は、仙人の「せん」とほぼ同義的な意味を持つ、山に人が入ると仙なのだ。

これは中国の神仙思想の影響である。


「山は、神そのものである」とする宗教的な思想が大陸などからもたらされ、この思想を広めた者、あるいはその思想の信奉者達が東北の地に移り住んだ時、森と山の混合がはじまる。

「やま」は、ヤーマである。

ヒンズー教では、いや日本では「死の神」とされている。

「死の神」と言うだけでは、実は説明不足過ぎるのだが、今、詳しくは書かないでおく。

単純に死の世界と生の世界の境にあって、死の世界を司る神である。

日本では閻魔大王(ヤーマのサンスクリット語の音訳)と言った方が馴染み深い。

つまり山とは、死の神の住まう場であり、死者の行く場所という理解なのだ。


シャマンの森の思想は、お盆に、その名残がある。

余談が多いが全ての物には魂(精霊)が宿るという自然崇拝の感性は、八百万の神々の思想に引き継がれる。


両者に共通するのは、生と死とその境である。

そして大きな違いは、森は、死だけではなく再生として生の場でもあると考えたのである。


死後、3年は里山に魂が留まり、里の子孫を見護る。

お盆には、ご先祖様が家に帰って来て、子孫である家族と過ごす。

お盆が過ぎると、また山に帰って行くのである。

3年が過ぎると、もっと高い山に昇る。

そして再生の時を待つ。


これが基本的な部分である。

今も東北の極一部地域に、この「もり信仰」が残っている。

そして東北以外にもほぼ本州に広く残っているのが「はやま信仰」である。

「はやま」は「葉山」、「羽山」、「端山」などと書く場合が多い。

余談だが、この山に因んだ苗字に羽生、羽入、丹生、針生の各氏がいる。


この山は、美しい円錐形の姿であると同時に、里に近いところに在るのが特徴だ。

この「はやま」で3年を過ごした後、向かう山が、エデ、イデ、イイデなのだ。

これは全て同じで、東北人なら理解していただけると思うが、訛り、つまり発音の問題でしかない。

イデは、出でるである。

つまり生命の再生の山なのだ。


ある土地で死ぬと、その土地に生れると言う中国の魂魄思想に似ている。


飯豊山も良いが、理解し易いので「いでは」にしよう。

あの有名な「出羽(でわ)」が3年後に目指す山であり、最終目的地は月山である。

月山は、魂が、あの世に向かう時に「羽」いる場所、魂がこの世に「出」る場所なのだ。

現在は、月山に湯殿山と羽黒山を含めて出羽三山と言う。

古には、村山の葉山と月山と羽黒で三山であった。

この三山を、生きている間に巡る行為は、生ある内に、死の体験をするということになる。

つまり迷わずにあの世に行き、迷わずこの世に戻る練習なのだ。

白い装束は死ではない、ハレの着モノであった。

東北では今だに結婚式でも葬式でも白装束である地域が辛うじて残っているが場所は言えない。 


この場合、修験者の先達(登山の時にリーダーと考えて良い)がある事から、修験道的な要素も多分に含まれてくる。

私の知る限り、東北の修験者は、必ずしも山頂を目指すことに執着しない。

その場合、途中にある、大磐の前で道が終わる事が多いのだ。

そこから先にある道は、明確ならば登山者がつけたもの、以前はあったという伝承があれば回峰修行の名残である場合が多い。

その磐に共通するのは、割れ目である。

その場所を、あの世とこの世の出入口と信じた時代があった。

山そのものよりも、その場を神聖視した証である。

これは支配を嫌って森とともに生きていたエミシの末裔が修験道と同化した際の名残のように想えてならないのだ。


ここで書きたかったことは、根底に、エミシの森に対すシャーマニズムがあり、そこからモリ信仰、イデ信仰へと流れる一本の筋道が観えるということ。

そしてそこに外来の、ヒンズー教、神仙道、道教、密教、神道、山岳信仰(権現や明神)、仏教そして修験道などとの融合が見えるのだ。

逆に削ぎ落して行くと、それはツングースの森の民族と、その“アミニズム”と“シャーマニズム”に行きつく。

彼らの中から北米に渡ってアメリカのインディアンへとなって行く部族も出た。

東北人の源流にあるエミシの人々に、現代人にはない、誇りと、引き込まれるような自然に対する感性を感じるのは、私だけなのだろうか。


余りにもエミシの人々の資料がない。

それは文字を持たなかったからだが、倭人との融合の歴史の過程でその痕跡を断片的に残している。

それを拾い集めて今後も書いてみたい。



とにかく久々に書いた。

結果まとまりがないことは、十分に承知しているが、ご勘弁願いたい。

今後、修正、加筆、あるいは大胆に先に書いた文章を含めて編集することになるだろう。