まつろわぬ生き方 -エミシの死生観 1 - | エミシの森

まつろわぬ生き方 -エミシの死生観 1 -

「死」とは、何か。

心臓、または脳の機能停止状態をもって、「死」を宣言する。

それが科学的で合理性のある判定、判断だとヤマトビトは言う。

いずれにせよ、生命体としての肉体の終焉・・・が「死」と言う現象と謂う訳だ。


人は、必ず「死」を迎える。

こればかりは、この世の成功者とされる政治家、と言う職業の権力者であろうと、億万長者であろうと、他者と等しく「絶対」として避ける術はない。

この「絶対」という選択の余地の無い条件を、真摯に受け入れて日々を暮らしているだろうか。

人と(他の動物と差別し、地球上の覇者と傲っている動物)に限らず「命」あるものは、全て「死」を受け入れざるを得ない。

いや命無きモノも、いつかは壊れ、この世での役割を終える。モノにも魂が宿るという思考は美しい。この世に存在する全てのモノに魂が宿っていると言う想いは、心安らかで優しい大らかな心の目を持った方の心にのみ現代もいきてるようだ。その意味から言えるのは、モノを手に入れる(買う)行為は、安易安直であってはならない。真に「その魂を必要としているのか」を自分に問うべきである。

「死」が終わりではないと言う思考もある。「命」を繋ぐと言う表現であり、それが生命体であるモノと、非生命体との違いと定義できる(のだろうか)。

繋ぐ事、それは神が仕掛けた「本能」と言う仕掛け、仕組みで、生命の誕生とともに延々と営まれ続けて来て、自分も存在している。

わざわざ書くまでも無いのだが、生命の継続「本能」と言う仕掛け、仕組みを「愛」とも呼ぶ。


脱線しかけた。話を戻そう。「死」を思う時、あるいは覚悟する時、あなたは何を想うのだろうか。

「恐怖」、「虚無」、「開放」・・・「家族の幸せを願う」、「生きた証を考える」・・・。

少し「死」を違う方向から観よう。

もし誰にも認識されない。つまり誰の目に触れる事も無く、こうやって情報も発信せず、誰にも何も知られる事無く・・・、そんな状況に在ったなら生きているといえるだろうか。

そうなるとインディアンの話のように、この世に存在しなくなる、のかも知れない。

だが東洋では、このような状況を意識的に作り、取り入れ「行」や「修行」として行って来た。

「死」の疑似体験は、何も呼吸を停止しギリギリの線まで「死」のフチまで近づいてみたり、実際に呼吸の停止まで持って逝って数分間「死」んで、他人に蘇生してもらうと言うような実証実験で、あの世の存在を確認するような事を行わなくとも、孤独の世界に身を置く事で体験が可能である。

例えば、賢治のように、山中に独り身を置いて観る事だ。現代人には、一晩でも辛い。

晴れの晩で酔い。太陽に温められた岩の上に身を横たえ、星が満天の夜空を見上げて居れば、嫌が上でもわかる。宇宙の一部である実感・・・地球の回転の一点に存在する小さ独粒(ひとつぶ)の存在である事を。

思考を停止する事は、できない。諦めの眠りに落ちるまでは、脳は問いかけを止めず、その答えを深層に届くほどに探す事になる。

もっと本格的にやりたいと言うのなら、空海のように洞に篭もる、いや現実的な線で言えば不動明王のお堂に入り数時間、可能なら一晩篭ってみるなど、仏教の修行方法を実践する方法などもある。

野天の場合、熊が来ないかなど、防衛本能から来る「恐怖」心との戦いがはじまる。賢治は、モノノケとの出遭いを体験している。それを経て、無力な己を認め「虚無」を噛みしめる。ままよ、どうとでもなれと言う開き直りに至れば心は「開放」へと向かう・・・その時、「死」がそっと寄り添う。その時点に至って何が心の底から浮かんでくるのだろう。死んだ後の「他人の幸せを願い」、己の「生きた証を考える」かもしれない。

いずれにせよ、「死」への想いには、「己(人)は何のために生きているのだろうか」と言う哲学的な課題がいつも寄り添っているのだ。

つづく



天(太陽)光を受けて遥か雲の上に顔を覗かせる飯豊連峰。地球の丸さを実感できる。一直線の雲の層の下には、人の里に近いが、容易には近付けない厳しい山々が連なっている。<蔵王刈田岳直下の車道より>

「死」に近い場所のひとつは、「山」だ。特に冬山に独り向かえば、嫌が上でも己に向き合う事になる。そして自分自身の性能を識る事になるのだ。