村山葉山と月山遠望に想うハヤマ信仰
霊峰月山(左)と村山葉山
出羽三山は、古来、この村山(地方)の葉山と月山と湯殿山だった(ことは、以外に知られていない)。
葉山は、羽山と書いても同じである。大事なのは、「は」という発音、音だけである。
現在、一般的に言う「出羽(でわ)」の「羽」は、このハヤマの「ハ」であり、当てた漢字が「葉」でも「羽」でも、俗説の「端」でも構わない。
大事なのは、その本質、モノだ。
出は、「出る」。
葉は、俗説の集落の「端っこ」の意味ではなく、「入る」を意味する「は」である。
出は、あの世からこの世に「出る」こと、つまり生まれること。
羽は、この世からあの世に「入る(戻る、還る、帰る)」こと、つまり死ぬこと。
を、それぞれ意味している。
現代人は、この世を現実の世界として捉えているが、古には、その逆もまた真なりである。
この世から、あの世に出る。
あの世から、この世に入る。
と考えていた。
「デハ」でも「デワ」でもなく、本質は旧来の言い方「イデハ」にある。
「出る」は、「イデる」の方が正しい。
「イデル」は、 「行く」「来る 」「居る 」の尊敬語で、「おイデになる」とかと使う。
つまり尊敬の念を込めて「イデ・ハ」と言っていたのである。
尊敬の対象は、実態(躯)のないモノである。
この地方で死んだモノは、村山の葉山で三年の時を過ごし、家や里のものを見守り(お盆には、帰って来る)、その後、月山からあの世に還る(あの世にイデる)のである。
これがハヤマ信仰(信仰と言えるのかは、解らないが)の概要である。
この世に出入りする場所は、山の山頂部近くにある岩の割れ目であると信じられて来た。
詳しくは書かないが胎内岩も生死観として同類である。
これらは包括的に言うところの磐(岩、巖)信仰であり、山岳信仰の原風景になる。
単純に言わば、山は、生と死の場であり、生と死の交錯する場である信じられて来たのだ。
この地方では、生と死の境に居る「姥神」様の信仰も盛んであった。姥石も生と死の境を示し同様の概念である。
生と密接な関係にある母体。
岩の割れ目を生命の胎内の出入り口と見做して、女陰岩信仰は、この名残りであり(もちろんこればかりではないが)山神を女と見做す信仰に繋がって行く。
一方で立岩信仰は、この女神を喜ばす、男根であり男神であり、金精信仰に繋がって行く。
ざっくりと書いた。
今日は、これくらいにしよう。
出羽三山は、古来、この村山(地方)の葉山と月山と湯殿山だった(ことは、以外に知られていない)。
葉山は、羽山と書いても同じである。大事なのは、「は」という発音、音だけである。
現在、一般的に言う「出羽(でわ)」の「羽」は、このハヤマの「ハ」であり、当てた漢字が「葉」でも「羽」でも、俗説の「端」でも構わない。
大事なのは、その本質、モノだ。
出は、「出る」。
葉は、俗説の集落の「端っこ」の意味ではなく、「入る」を意味する「は」である。
出は、あの世からこの世に「出る」こと、つまり生まれること。
羽は、この世からあの世に「入る(戻る、還る、帰る)」こと、つまり死ぬこと。
を、それぞれ意味している。
現代人は、この世を現実の世界として捉えているが、古には、その逆もまた真なりである。
この世から、あの世に出る。
あの世から、この世に入る。
と考えていた。
「デハ」でも「デワ」でもなく、本質は旧来の言い方「イデハ」にある。
「出る」は、「イデる」の方が正しい。
「イデル」は、 「行く」「来る 」「居る 」の尊敬語で、「おイデになる」とかと使う。
つまり尊敬の念を込めて「イデ・ハ」と言っていたのである。
尊敬の対象は、実態(躯)のないモノである。
この地方で死んだモノは、村山の葉山で三年の時を過ごし、家や里のものを見守り(お盆には、帰って来る)、その後、月山からあの世に還る(あの世にイデる)のである。
これがハヤマ信仰(信仰と言えるのかは、解らないが)の概要である。
この世に出入りする場所は、山の山頂部近くにある岩の割れ目であると信じられて来た。
詳しくは書かないが胎内岩も生死観として同類である。
これらは包括的に言うところの磐(岩、巖)信仰であり、山岳信仰の原風景になる。
単純に言わば、山は、生と死の場であり、生と死の交錯する場である信じられて来たのだ。
この地方では、生と死の境に居る「姥神」様の信仰も盛んであった。姥石も生と死の境を示し同様の概念である。
生と密接な関係にある母体。
岩の割れ目を生命の胎内の出入り口と見做して、女陰岩信仰は、この名残りであり(もちろんこればかりではないが)山神を女と見做す信仰に繋がって行く。
一方で立岩信仰は、この女神を喜ばす、男根であり男神であり、金精信仰に繋がって行く。
ざっくりと書いた。
今日は、これくらいにしよう。