シワの神
宮城県から岩手県にかけてシワ(紫波、志波)の姫神が居わす。
田村麻呂以前、多くのヤマトの将軍は、エミシのゲリラ戦に手を焼いていた。
エミシの部族同士での争い事は、オサ(長)による和議で終結した。争いが武力によるものとる不幸は、古でも現代でも同じ事だ。
エミシには、その不幸を最小限にするための知恵があった。
負けた側が勝った側の神を認め拝むことで、敗北の意を表した。
それはクマを神とした森の民に、ワシを神とした森の民が負ければ、クマの神を第一の神とし、ワシの神を第二にするといった程度のものであった。
二部族の融合は、経験的に近しい血の交わりを避けるために行われていた。
むしろ積極的に二部族が融合して暮らして来た。
だからこそ血を流すような戦いをしないのが、エミシの流儀であったのだ。
倭人が土地に移住してきても、寛容なまでに受け容れてきたのは、良くも悪くもこの思想が根底にあったのだ。
アイヌとは友好的な関係で土地に生きていたのは、そのルールが同質であったからであろう。
エミシの思考は、この点アメリカのインディンに実に良く似ている。
奪い尽くすような支配は、人の名誉や誇りを根刮ぎに奪う。
それを武力を持って行うのが、都の流儀であった。
誇りとはなんであろうか。
相手を尊厳するとは、どういったことであろうか。
千数百前以前に出来ていた、この誇りと尊厳の関係を、私達は、いつ失ったのであろうか。
しかし征夷大将軍坂上田村麻呂は、エミシの流儀を知り抜いていた。
何故だろう。
私は、彼が阿武隈のエミシの長の子、あるいは早い時期に都側についたエミシの有力な首の子孫であったと考えている。
要するにインディアンのゲリラ戦に手を焼き、インディアンの将校をもって行ったのに同じである。
田村麻呂は、姫神を守護神としていた。
姫神の名は、姫神山の伝説によれば烏帽子神女姫となっている。
また京都の鈴鹿山の伝承によれば、鈴鹿権現瀬織津姫神(鈴鹿峠で旅人を苦しめた悪鬼の征伐にやってきた坂上田村麻呂を助けた武勇の女神と言われ、現在も祗園山鉾一の美神として祀られている)とされている。
今も残る、紫波姫、志波姫などが名残だが、最前線にこの神を祭り、この神の威光で勝利していると宣伝しつつ戦うのだ。
基本は、こちらの神が、いかに強力であるかを説きながらの和睦作戦であった。
シワとは、堺である。
最前線地点が、サカイであり、そこに祀った神が、シワの神であった。
その姫神は、田村麻呂の守護神であり、最後に岩手の姫神山に祀られたというが。
エミシの邦の姫神と言えば、もう一柱想いあたる。
瀬織津姫。
室根から早池峰へ。
早池峯神社に祀られている。
その後、その御霊は、宮城の荒雄に遷され、今、その姫神は、最後の奥州王伊達政宗の密命によって宮城の塩竈神社に鎮座されて居わす・・・というが明らかにされていない。
塩竈神社の隣には、明治に七北田川(旧 カムリ川=冠川)の傍、岩切からシワ彦の神を遷した。
ではそのシワ彦の神は、何方様であるのだろうか。
冠川で冠を落した神であるが、その名を知る者はいない・・・。
シワ姫が瀬織津姫であり、シワ彦が何者かは別にしても千数百年後に多賀城市の側の塩竈で再会したとするならば、と考えるのは浪漫に過ぎるのだろうか。