昨日は看護師であり僧侶でもある玉置妙憂さんの
大慈学苑さま主催のスピリチュアルケアの勉強会に
参加しました。
テーマは【希死念慮とスピリチュアルケア】でした。
私は5歳で両親を亡くし、
母親を自死で亡くしました。
自死という死因を理由に
母親は弱い人、無責任な人…とさまざまな
レッテルを貼られ、
苦しんできました。
そして
導かれるように精神科閉鎖病棟の看護師に
なりました。
毎日死ぬ方法を真剣に考えている人、
死にたいと吐露してくださる人…
たくさんの「死にたいきもち」に向きあって
きました。
向きあってきた…というほど
臨床経験が豊富ではないため、
今は大学院で精神看護学を専攻しています。
生きることと死ぬこと…
そもそも…
生きることや死ぬことそのものに意味があるのか?
意味があるにしたとしても、
それは本人以外は知る由もなく、
他者は踏み入れてはならない領域ではないのか?と…
生きること、死ぬことについて
答えのない問いにずっと向きあってきました。
「死にたい気持ちを否定しない」こと。
死にたいひとにほんの少しでも生きることへの勇気が残っているとしたら、寄り添い、語り合うことが、
感情に気づくプロセスには重要だと感じます。
大切な存在を喪失したり
生きることの意味を見失ったり
否定をされ続けた経験があったり…
さまざまな理由でひとは生きることに
終止符を打ちたいと感じます。
自死を選択する人は命を粗末にする人だ…
というレッテル。
しかし…
死を選ぶという勇気や覚悟の裏には
【いのち】について深く考え、自分の存在意義や
生きる価値を考えているのではないかと推察します。
それでも【死】しか苦痛を逃れる手段がない…と
考え、自ら死を選択するのではないかと思うのです。
死の階段を降り始めたひとの
死を止められるのか…
そもそも無責任に死を止めることが最善の方法か…
まだまだ議論が必要な領域ではないかと
強く強く感じた勉強会でした。