真実は、抗いがたく、そこに在る。

ひかりの存在。

 

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先日の満月の日。

ご縁があって、勾玉を買うことができた。

それを創っている作家さんにお会いしたからだ。

そのかたが創る勾玉の形を見るたびに気になっていたので、絶対に何か一つ購入したいと思っていた。

 

勾玉は、どれもかわいくて、どれも欲しくなって、でも、オンリーワンを選びたくて、ケースから、ひとつひとつ取り出して眺めていると、暗めの色なので、気に留めていなかった勾玉に、赤い部分が見えた。

手にとると、赤と紫のツートーンで、光のあたりかたによって、不思議な見え方をする。

 

(これだ!)

 

と思った。

丹田のあたりが、反応している。

首からかけると、ものすごい「グラウンディング感」だった。

磁石に引き寄せられるように、身体が地に着く。

 

(なんて、パワフルなんだろう)

 

***
 

たまたま、その日は満月で、勾玉が訪れた日で、セッションの日だった。

 

私には、メンターのような人がいて、定期的にセッションのようなことをしていただいている。

〈ような〉というのは、知り合ったときは、そうではなかったからだ。

 

やっていることも、コーチングでもなく、カウンセリングでもなく、ヒーリングでもなく、セラピーでもなく、なんと表せばよいのか、よくわからない。

 

「えみなさんにみえているのって、肉体のお母さんですか?」

 

と、不意に言われて、とまどった。

 

母は3年前に亡くなっている。

母を思うとき、母には姿(かたち)があり、その母を見ている。

あらためて、

 

(いつの姿だろう?)

 

と思った。

 

(何歳?)

 

若いような、若くないような。

私が小さいときの母でもないし、結婚してからの母でもない。

 

よく考えてみると、いつの母なのか、わからないのだ。

表情もぼやけている感じ。

髪型や、雰囲気は、毎日見ている遺影の感じ。

母なのだろうか?

 

……ということを瞬時に考え、「かたちはあります」と答えた。

 

すると、

「お母さんのかたちのまわりを、たどってください」と言われ、

 

(?)

 

意味がわからなくて黙っていたら、

 

「指でもいいし、マウスで輪郭をたどるみたいでもいいけど、線を引いてみてください」

 

と言われたので、浮かんでいる母の姿の輪郭を、髪のあたりからなぞっていった。

 

(母に足があるかどうかを確かめるのだろうか)と思いながら。

 

***

 

続いて、

 

「えみなさんの感じるおかあさんって、その枠の中に入っていますか?」

 

と言われ、ますます

 

(???)

 

「意味がわからない」と答えた。

 

「肉体のまわりをたどった枠の中に入っているのが、お母さんですか?」

「お母さんかどうかわからないけど……カタチはお母さん。中身があるかどうかわからない」

「えみなさんにとっては、それがお母さんですか?」

「…………」

 

質問の意図がわからなくて、沈黙していると、

 

「〝自分”をイメージして、そのまわりに〝枠”をイメージして、たどってみたら、どんな感じですか? それが〝自分”って感じですか?」と言われた。

 

言われたとおりにやってみた。

中身はともかく、枠は私ではないと感じ、

 

「枠は〝自分”じゃないです」

 

と、即答した。

 

「〝自分”は?」

「〝自分”と思っている〝自分”は、かたちがないです」

「肉体は? 肉体は、かたちがないと思っている部分の、どこにあるのですか?」

「中かもしれないし、別の次元かもしれないけど……。つながっているけど、べつべつにある。二人羽織みたいな感じか、操縦席にいる感じ」

 

「操縦席はどこにあるのですか?」

「丹田のあたり。グラウンディングするときの途中くらいのところ」

「肉体が枠を感じたとき、心地いいですか?」

「枠は別という感じ」

「枠に入っていないって感じ?」

「入っているけど、別っていう感じ」

「別っていうことは、入っていないということですよね?」

 

***

 

「枠の中に入っている感じは、どんな体験ですか?」

「枠の中に入るのは、いや、です」

「肉体があって、枠がなかったら、入れますか?」

「はみでている」

「その感じは、心地いいですか」

「はい」

「それだったら、入れますか?」

「あふれている」

「感じてみてください」

「はい」

「そのまま、お母さんをみてください」

 

と言われて、母を見てびっくり。

さきほど、形どった「母のかたちをした輪郭」から、「はみだして、あふれて、いっぱいにひろがっているもの」が見えたからだ。

しかも、

 

(感じる)

 

びっくりした。

何が起こったのかわからない。

 

だって、ついさっき、私は、頭に浮かんでいる母の「かたち」に、輪郭を描いたのだ。

 

それが、自分にも枠を書き、その中に入ろうとしたところ、入れないことがわかり、枠をはずしたら、はみだすしかない自分や、あふれている自分を感じ、心地いいと思った。

 

そうして、

 

「お母さんを見てください」

 

と言われて、母のほうを視た瞬間、

 

〈母の輪郭からはみだして、全身からあふれているもの〉

 

が観えたのだ。

 

(仏像の光背のような感じ)

 

前から、視える人には視えていて、感じるもができたのかもしれないが、私には視えていなかった。

 

(同期している)

 

魂と肉体の同期。

私と母の同期。

 

その瞬間に起こったのは、「笑う」という衝動だった。

 

セッションの途中で、いきなり笑すなんて、へんだし、失礼だから、必死で止めようとしたけど、笑いの衝動が押し寄せてくる。

頭の片隅で、

 

(もしかして、この衝動は、「笑う」じゃなくて「泣く」?)

 

と感じた。

放っておいたら、げらげら笑いだして、そのまま号泣してしまいそうだった。

母のエネルギーを感じたことにびっくり。

 

涙が勝手に出てくるのだけど、泣きたくない。

ここでは、泣きません、という感じ。

 

〈母が成仏した〉

 

と、一瞬思ったが、成仏したのは母ではなく、勝手に作っていた「枠」だとわかった。

 

(お母さんは、3年前に成仏している)

 

ねじれが外れた。

お母さんには、叶わない、という気持ち。

抵抗がとれた。

これが、母の本質のエネルギーなのだろうか。

 

真実は、抗いがたく、そこに在る。

ひかりの存在。

 

***

 

二つのミラクルが起きていることがわかった。

一つは、

 

「肉体とは別だ」と思った存在と、肉体がいっしょにある感覚。

 

(同期している)

(魂と肉体の同期)

 

いつのまにか、そういう自分になっていた。そのことに驚く。

グラウンディングの賜物だと、思う。

 

そして、もう一つは、

 

(私と母の同期)

 

これは、勾玉のおかげではないかと、思っている。

持ち帰って、眺めているとき、深い赤だと思ったところが、胎盤のようだと感じたからだ。

紫は母が大好きな色だということにも、思い当たった。

 

 

胎児のような、勾玉のかたち。

奇しくも、満月。

 

最近、女性性に関することをテーマとするかたとのご縁が続いたので、自分の名前に含まれている音 ―「えな」― を感じていた。

 

 

「えな(胞衣)」は、胎児を包んでいた羊膜や胎盤など、後産 (あとざん) として体外に排出されるものだという。

 

長野県にある恵那神社は、天照大神が誕生したときの「えな」を洗い清めて、その地に埋めたという伝説があるそうだ。

 

(「えな」を産める)

 

天照大神の「えな」だから埋めたのではなく、日本各地で、自宅分娩が行われていたころ、「えな」の扱いは、生まれた子どもの一生に重大な影響を及ぼすと信じられ、儀礼的な風習があったという。

 

その幾つかを読んだ。

父や母の「えな」は、その地域の作法によって、大切に埋められたのかもしれないと感じた。

 

私は、結婚も出産も遅かったのに、こういうことには全く無恥だった。

幸か不幸か、実家から徒歩で行ける場所に産婦人科があり、何の迷いもなく、そこで出産した。

見せてほしいといえば、胎盤もへその緒も見せてもらえたと思うのに、残念なことをした。

 

「えな」は、母体と赤ちゃんがつながっていた証。

胎児のような、勾玉のかたち。

胎盤に張り巡らされる血管と血液循環。

 

 

秘められたミラクルを、満月の夜に、受け取った。

 

浜田えみな