水の珠
太古の記憶を滔々と
たたえて脈打つ
アクアレムリア
* * *
先日、短歌をされている魅力的なかたとお話する機会があった。
初めてなのに、打ち解けて話ができ、会話した時間は数十分ほどだったのに、なぜ出会え、向かい合っているのかが、言葉でなく理屈でなく、深い部分でつながりあえるような信頼と、もっとずっと話していたいような名残惜しさと、別れたあとも交わした言葉が触媒となって、いつまでもどこまでも反応しつづけ、変化していくような、とても不思議な出逢いだった。
そのかたと、水の話をした。
自分たちの持つ「水」の質と、その在り方について。
流れを失い、鎖された場所で動かなくなった水は、よどみ、腐る…… という話を聴いたとき、確かにそうだと思った。朽ち果てた水たまりの様子目に浮かんだ。
でも、その人からは、よどんだ水の気配は感じられなかった。
なぜだか、アクアレムリアのことが頭をよぎった。
アクアレムリアは、そのものが水の珠のような、アクアブルーの透明な石だ。
私が持っているものは、小さいビー玉のような、まんまるのものだ。
よどみ、腐るのは、不純物があるからだ。
腐らない水もあるのではないか。
どんな水ならは、永遠に腐らないか。
アクアレムリアの、どこまでも透明度の高い海の底をのぞきこむような、ゆらぎの中で、個体として隔離された珠の中を自由に流れ、鼓動し、脈うち、太古からよどまず、その神秘をたたえ、メッセージを発信し続けている水を見た。
そのかたの、ミステリアスなたたずまいは、その水を思い出させた。
で。
私も短歌を作ってみることにした。
なぜかというと、そのかたは、なんでも短歌にされるようだったからだ。
「たとえば、今の私とえみなさんを短歌にしてみましょう」
なんておっしゃるのだ(!)
とっても気軽に、
「季語もない、制約もない、五七五七七でいい。ちょっとくらい多くてもいい」
などと言ってくださったので、うっかり、
「え、それなら、どんどん、むっちゃいっぱい、できますよね!」
などと言ってしまい、
「そう、いっぱいできる。でも、いいのは、なかなかできない」
と、やんわり言われたのに、
「やってみます!」
と、目を輝かせて、簡単に宣言してしまったのだ。
* * *
字数が少ないからといって、すぐに完成するというのは大間違いだった。やってみてわかった。
だらだら書くほうが、ずっと早くできる。一瞬でできる。
さらに、限られた字数の中で表現する世界と、いくつも言葉を連ねて表現する世界では、使う筋肉がまったく違うこともわかった。
短距離と長距離。
鍼灸とマッサージ。
(ううーーーん)
今まで使ってなかった筋肉。ケイレンしそうだった(泣)
しかも。
短歌の中には、いろいろなカテゴリがあるのではないだろうか? などと思い始めた。
学校で習った短歌が、ルーブル美術館にあるような絵画や、わびさびの水墨画だとしたら、ポップアートみたいな短歌や、イラストレーションみたいな短歌もあるように思う。
口ずさむような、つぶやきのような、ひとりごとのような、ためいきのような短歌も。
(どんな感じがいいのだろう?)
できてもいないのに(笑)
びっくりしたのは、短歌を作ろうと意識したとたん、頭の中に、「五」と「七」のスケールと、ふるいが現われたことだ。
今まで、そんなものは私の頭の中に存在しなかったのに!
それらを使ってふりわけていくと、あてはまらない言葉の、なんて多いこと……。
養成ギプスをはめられたような不自由さの中で、言葉の海を泳ぐ。
ふるい分けられた中で、結晶が育っていく。
それをさらに選り分けて編みなおし、歌人たちは、短歌を詠むのだろう。
すごすぎる。
三十一文字書くのに、三千字分書くよりたくさんの時間を要することがわかって、意気消沈。
(…………)
水の珠 太古の記憶を滔々と たたえて脈打つ アクアレムリア
* * *
アクアレムリアという石を手にしてから、声が届く。
(こんなことを私に言ってくださるなんて……)
と、魂が震えるような言葉を、受け取る幸福に恵まれている。
そのひとの一生を支えるものは、
(言葉だ)
という思いを、強くした。
いつも思いだせて、いつも蘇らせることができて、いつもあたたかい。
だから、私は、言葉から離れない。
浜田えみな