みみより日和


「人が照らす場所ではなく、
自分の光が届く場所を見ろ」


自分が投げかけることができるものを、
ただ、大切にすればいい。


無理せず、背伸びせず、
自分の光を見て、
その光が届く先を見て、
その中にいる人たちに、
向き合う。


自分にできることを、信頼する。


*    *    *


めっちゃ久しぶりにセミナーみたいなんに行ってきた。


誰でも参加していいと書いてあったし、無料だったので、フェイスブックで申しこんだ。
参加申請のアイコンを見た人たちに、


(誰これ?)


と思われたかもしれないけれど、


「誰ですか?」とも、「誰の紹介ですか?」とも訊かれなかった。


受付で名刺を求められてビックリしたけれど、「持ってないんですけど……」と言ったら、メールアドレスを書くだけで大丈夫だった。
(名刺をもたないジブン)になろうと思っていたから、本当に持っていなかったのだ。


席について、まわりの雰囲気を観察しているうちに、わかってきたことは……


関係者の知り合いでもなく、その講座への関心もなく、そこからつながるものへの野心も展望もないのに参加しているのは、わたしくらいだったということだ(ありゃりゃ)。


着ている服とか、まとっているニュアンスみたいなものが、あきらかに場違いなのは一目瞭然で、そもそも誰の眼中にも入ってないというか、いないものにされたというか(笑)、本当に、誰からも話しかけられなかった…… のをこれ幸い(笑)、


(わー、こんなのタダで聴かせてもらって、いいのかなー。めっちゃ、得!!)
(なぜ、わたしは、ここに来れたのかな!)


と、自分の嗅覚のよさをホメホメにホメながら、オシリが椅子から浮き上がって踊り出してしまいそうな意義ある数時間を、存分に楽しんだ。


それは、とある講師養成講座のカリキュラムを修了した受講生の発表会だった。


その講座で学ぶ具体的なことはわからないのだけど、魅力あるセミナーを創るためのあらゆるノウハウを叩きこまれて、卒業を迎え、完成された90分のセミナー(商品)の冒頭20分を、講師の皆さんが実演してくださるのだ。


パワーポイントのページの作り方、レジュメの構成、話し方(マイクの使い方)、立ち方、動き方。
どれもが指導項目に入っているようだった。

発表のあとは、審査員?みたいなかたたちのコメントがあり、指導にあたった講師からの講評が続く。
それらの言葉が、あたたかさあり、厳しさあり、具体的な指導ありで、まったく部外者の浜田が聞いていても、ためになるようなことばかりだった。


(セミナー講師のかたたちは、こんな勉強をしているのかー)
(上手な講座のかげには、こんなノウハウがあったのかー)
(なるほどなー、なるほどなー)


セミナーの構成というのは、文章の構成とも似ている。
「セミナーは立ち上がりの5分で決まる」そうだけど、文章だって、アタマの5行で決まる。


*    *    *


発表が終わって、ふと気づいた。


(これは、〈同じ講師養成講座を修了した人たち〉のセミナーなんだ)
(〈同じカリキュラムで指導を受けた人たち〉の成果だ)


(……にしては、あまりにも……)


〈ちがいすぎる?〉


と、最初は思った。
講座を受講する前のキャリアが違うのだから、三か月の講座でその差を埋められないのは、当然だ。


慣れている人は慣れている。余裕のない人はない。
最初から、やわらかい笑顔を終始ふりまくことができる人もいれば、固くこわばった表情がなかなかとれない人もいる。

プロのアナウンサーみたいに美しく話す人もいれば、声の美しさからは遠い人もいる。
わたしがそのかたたちと同期だったら、自分が持っていないすべてをうらやみ、落ち込むことしかできなかったと思う。


いただいた資料も、さまざまだった。
穴埋め式になっていて、セミナーを聴きながら書きこんでいくものもあったし、スクリーンのパワーポイントと同じものもあった。レジュメそのものが貴重な資料集になっているものもあったし、セミナーでお話されていることが、ほとんど文章化されているものもあった。


完成度や、かけた時間、資料としての観点から見れば、レベルの差はある。
だけど、レジュメは、それ単独で評価するものではない。セミナーの一つの要素だ。
どういうレジュメを用意するかによって、セミナーの進め方も変わる。


穴埋め式のものを用意したのなら、聴講者がメモできるようにゆっくり話すことが必要だし、資料を載せているなら、どこがポイントなのかを意識させなければならない。


わたし自身は、項目しかないレジュメより、文章がたくさんあるレジュメのほうが好きだから、自分が用意する資料には、情報をたくさん詰め込んでしまうけれど、そんなの読む気になれない人もいると思う。


誰をターゲットにするのか? 
その人たちはふだんから文章を読んだり書いたりする機会のある人なのか? 
セミナー会場は筆記できる環境なのか? 


そんなことを考慮することが大切だ。
好きだから、得意だから、いつもコレだから、という理由で、安易に資料を用意してはいけないものだと感じた。


(なるほどなあ……)


まったくタイプのちがうレジュメを手にしたからこそ、そのことがイメージできた。


全員が同じテーマで同じターゲットに向けて構成したセミナーの発表であったなら、順位をつけることしかできない。


でも、講師のカラーもテーマも、さまざまだった。
おのずと、そのかたたちが立つ「場」のイメージが目に浮かんだ。
発信するものに「最適」な受け取り手と環境があり、まったくかぶっていない。


何百人という規模の講演会でも、人の心をつかむ資質を備えた講師。
企業向けのセミナーで、めきめき実績をあげる才覚を備えた講師。
場所を選ばず、大勢のかたの心をぐいぐいひきつけそうなパワフルなエネルギーを備えた講師。
少人数で、おひとりおひとりに寄り添う言葉かけが魅力となりそうな講師。


(ああ、そうなんだーー)


とつぜん、わかった。


今、いる場所で放つ光がとどくところに、受け取ってくれる人は、誰にでも同じ数だけいるのだ。


(あんなふうだったらいいのに)と思う場所は、すでに、別の誰かの光が届いている。
自分がそこに行く必要はない。


今、立っている場所からさしだす光が照らす場所は、まだ誰の光も届いていない場所。
待っている人がいる。うけとってくれる人がいる。同じだけいる。
だれの光も届かない、自分の光が届く場所に。


(そういうことなんだ!)


ホールでたくさんの人に講演する講師も必要だし、公民館の集会室でお茶会ができる講師も必要だ。

演題に立って、パワーポイントを使って、朗々と演ずる講師も必要だし、車座になって、膝をつきあわせて、飾らない言葉で伝えることができる講師も必要。


どんなに遠くても、交通機関を利用できるところなら参加OKの人もいれば、家事や育児のあいまを工面して、自転車で行けるところにしか参加できない人もいる。


ビジネススーツを着こなしてパソコンを片手に聴講する人もいれば、子どもの食べこぼしのついたTシャツとサンダルばきに手ぶらで、ただ、しっかりとうなづいてくれる人もいる。


詳細な資料を宝物のように喜んでくれ、しっかり書きこみをし、バリバリご自身の生活に活用していく人もいれば、ノートにメモを取るなんてできなくて、レジュメをもらっても置くところなどない人だっている。


だけど、「知りたい! 教えてほしい!」と思っている人は、どの層にだっている。


(今まで、どこを見てたのだろう?)


ただ、前を見ればいいのだった。
自分が投げかけることができるものを、ただ、大切にすればいいのだった。
背伸びをせず、できないものを求めず、自分が属する世界にいる人たちに、ふだんの言葉で。


講師養成講座を主催している先生が、受講生にいつも言っているのは、


「苦手なことをやめて、得意なことで勝負しろという言葉だ」


とおっしゃっていた。

その言葉は、わたしの中で


「人が照らす場所ではなく、自分の光が届く場所を見ろ」


と変換され、どこまでも波紋のように拡がっていった。


自分の光が届く場所など、見たことがなかった。
自分の光さえ、見ようとしたことがなかった。
その光の中に、うけとってくれる人がいるなんて、思ったこともなかった。


(いるんだ)


まだ、自分の光は見たことがない。
だけど、聴講させていただいた講師たちの、それぞれの光と、光の中に浮かび上がる人たちの姿は、しっかり見えた。
だから、


(信じられる)


何かが、まだ上手にできなかったり、経験や実績が乏しかったり、技術が未熟だったり、思うようにできないことがあったとしても、そのとき創るものや発信できるものを受け取ってくれる人が、そのときどきで、存在し続けることを。


プロ級の腕前の作品に心打たれる人ばかりではない。
流暢に話す言葉に耳を傾ける人ばかりではない。


無理せず、背伸びせず、自分の光を見て、その光が届く先を見て、その中にいる人たちに、向き合う。

自分にできることを、信頼する。



みみより日和


*    *    *


あんまり出歩かんとこー と思っていたけれど、出歩けば何かしらギフトがあるものだと思った。
というか、


(欲しいものを、欲しいように受け取ることができる)


いやはや。
これは、もはや特技。


浜田えみな