みみより日和


人は、形を見たとき、
そこに意味をつけずにいられない。


たくさんの線があり、
たくさんの動きがある。

いつ、どこを見ても、
初めて迷い込むような、
新発見のエリアがある。


それは、自分の中への
無限のアクセスコード


物語を創らずにはいられない。


*    *    *


同じ場所にいたことはあるし、挨拶をしたことはあるけれど、そのときは、お互い別のベクトルに向かっていて、すぐに軌道が離れた人と、時が巡って、どうしようもない必然性で引きあう瞬間がある。


ゆみこさんと共有した時間は、お互いの源泉を感じるために、それぞれの手が掘削して温泉をあふれさせ、ひたひたに満たされたものに包まれていたと思う。


爪先から、足首から、ひざこぞうから、足の付け根から、おなかから、胸から、肩から、あごから、鼻先から、まぶたから、そして、頭の先まで、どっぷりずぶずぶ。順番に、自分の温泉にほとびて一体になっていく、そんな安心で安全であたたかい感覚の連鎖。


そんな一連の出来事と、名前のことだまのことを、少しずつ書いていく。


*    *    *


「話がしたいけど、メールは苦手なので電話で話したい」というメールをもらって、


(そんなのとんでもない!)


と思って、即座に「電話は苦手なので会いましょう」と返信した。
人と会うことが楽しくなっている、ちょうどその時だったから。


ゆみこさんは書くことは苦手だと言うけれど、ブログなどを読んでいると、行間からなだれこんでくる感情の中に、いろとりどりの毛糸みたいなあらゆるものが混雑していて、ひとつひとつをすくいあげて感じ分けていると、その透明さと率直さに言葉を失くしてしまう。


言葉の紡ぎ手としてのゆみこさんの魅力を感じていたので、わたしも会いたかった。
でも、なんというか……
ゆみこさんは、会いたいと思って会える人でもない(笑) 
ゆみこさんがその気にならないと、いろんなものが動かない。そういう感じの人だ。


わたしの活動はブログでオープンにしているけれど、読んでなければ知りようもないし(笑)、ゆみこさんは、ある時を機に、表のブログやFBでは発信していないので、今、何に向かっているのか、まったくわからない。

過去にだって、挨拶以外の言葉は交わしたことがないのだ。
お互い、顔は知ってるけど、初対面みたいな出会い。


「で、」
「今、」
「何をどうしているの?」


まずは、そんなところから、無地のノートを開いて向き合う感じ(笑)


ブログに書いていることなんて後追いだ。すごく大きなターニングポイントだったのに、書かないで取り紛れてしまうこともある。

まさに、今、考えていることや、今しか考えていないことは、その瞬間の自分にしかない。

目の前にいる人に訊かれれば話すけれど、そのままマインドが過ぎてしまえば、そのとき、その瞬間の、その人しか知らないことになる。


人と会い、話す。


つかむものもあるし、手放すものもある。
つかめるものもあるし、手放せるものがある。


人は、感覚を表現できる 動物だと思う。


いろんな感覚がせめぎあっている。
その感じ分けたものを表現するときに、わたしは文章表現を使う。
色や音、動き、造形で表す人もいる。


ゆみこさんは、それを、今は「線」で表現したいのだそうだ。


ペン先から線が生まれてくるそうだ。
話しながら。その人を見ながら。


「それは、その人のエネルギー?」
「エネルギーというのとは、ちがうと思う。その人の中にあって、わたしが、アクセスできるところにあるもの。だから、毎回、ちがう。瞬間で変わっていく」


その変わりゆく感覚と共鳴すること が、心地いいのだろうなと思う。

共鳴したことの「証」があふれでる線なのだと思う。


人は、「証」を求めるし、残したい。
そして、消したい。

身勝手ながら(笑)


「やらせてもらってもいい?」


と言われたので、


「いいよ」


と言った。


ちょうど名刺サイズの大きさが好きなのだそうだ。


(こんな小さなもので?)


と思うけれど、その世界を小さくするのも、大きくするのも、受け取り手の意識だ。
ゆみこさんは、望遠鏡のレンズを絞るだけだ。


左上のモールみたいなものから現れ始めた。モールは、どんどん垂れ下がっていく。
植物みたいだ。

(※ブログの画像は天地が逆になっているので、ゆみこさんは、右下から上へと書き始めた)


言葉ではないものが翻訳されている。

計測器のように、止まることのない線を見ているのは、とてもおもしろい。

ゆみこさんにも、何が出てくるのかわからないそうだ。
わたしの中にあるものが、ゆみこさんの翻訳に転写されていく感じ。
ゆみこさんに許したエリアにいるわたしの波動のようなものが映し出されていく。


(わたしの中には、何があるのだろう?)


自分にも許していない(と思っている)扉を、人はいくつまで数えているのか。


ゆみこさんが、ふいに顔をあげる。


「えみなちゃん、花火好き?」


(花火?)


右側(画像では左側)の放射状のもののことだろうか?


ゆみこさんは描いていて、花火のようにスパークする動きを感じているのだろう。
わたしは、逆から見ているので、収束して閉じているように見える。


(中国の工芸茶の中心みたいだな)


と思って、ずっと見ていたから。
工芸茶は、お湯の中に入れると、いろとりどりの花と、滋養によいものが開いて浸出する。
花火と言えなくもない。

名刺大のスペースは、さまざま線で、あっというまに埋め尽くされてしまった。
わたしは、絵やデザインをしていると、余白を埋め尽くしたくなる。
油断すると、すみからすみまで、何かを書きこんでしまうので、


(思念の世界も同じなのか……)


と、笑いそうになってしまった。


ゆみこさんが最初に書きはじめた左肩のモールのところが、向い側からのぞきこんでいる私からは、花に見えた。(下記の右下)


みみより日和


「カサブランカのような大輪の花」と書けば、イメージできるだろうか。


でも、カサブランカのような清楚な白でも、匂いたつような高貴さではなくて……

もっと、地べたを這うように咲くラフレシアのような、肉厚のearthyな色合いのエロティックでジューシーな花だ。


そのほかの線の重なりのどこにも「女性性」のようなものはないのに、そこだけが、したたるようなエロスの開花に思えて、下方のチャクラが満たされる気がする。


「見ていたら、色も見えてくるよ」


と、ゆみこさんが言う意味が、とてもよくわかる。

色は、その物体が吸収しない波長が反射されているもの。
そのときどきで、何をスパークするのかは、本当は人それぞれ固有のものだ。


モノクロの世界は、色が飛び立つ自由なフィールド。


(それにしても、ぎっしり! 余白がない!)


サンプルで、今までに書いたものを見せてもらった別の作品には、ちゃんと字が入るスペースがあったので、


「ゆみこさん、字は?」
「いやあ…… 名前を入れようと思っていたのに、入れるところがなくなった」


と笑って、裏を返した。
裏にも書いてくれるようだ(笑)


裏は、みるみる「世界の様相」を呈してきた。


みみより日和


原始の世界のような。
恐竜がいそうな。
火山が噴火しそうな。
赤茶けた雨が降りそうな。
稲妻が起こりそうな。
生命が生まれそうな。


見ているうちに、昨年の夏、サトルアロマで映像化された「ドーン(夜明け)」の気配が襲ってきた。


自分の中にあるものは……
どうしようもなく熱があって、湿っていて、飽和状態で、でも、その噴出しそうなエネルギーをとどめた夜明け前。


地面の下にうずまくものたちが……
限界の瞬間をカウントダウンしているような、そういう地熱が空気さえふるわせるような。
出産でいうと、いきみの限界すれすれで、もちこたえているような。


出てこようとするものが何なのか、本当にそういうものがあるのか、わからない。


(今は何も形になっていない)


でも、サトルアロマの力を借りてつながった世界が、今なお、ゆみこさんがキャッチできるくらい強くイメージ化されている。


(なんだろう?)


とにかく、自分が持っているものが、「熱帯性」で「earthy」 なものだと、理解できて、すごく腑に落ちた。


学生のころからゴーギャンが好きだ。
タヒチの人が好きなのか、ゴーギャンが好きなのか、よくわからないと思っていたけれど、タヒチの世界に共鳴していたのだ。

そんな昔から、自分の本質が求めているものを察知していたなんて、すごいと思った。
「自分が好きなもの」は、メッセージだ。あなどれない。


(だとすれば……)


わたしのことを、まるで信州の高原に咲く花だとか、すっきりとした聖域の森林に湧き出る泉のように言ってくださる人がいるけれど、それは、そのように見せている「作ったわたし」なんだなと思った。


そんなふうに言われたら嬉しく思うし、そうありたいと思うけれど、それは、自分が本当にやりたいことでも、好きなことでもないのだ。
そのことがわかって、本当にサバサバした。


なりたいわたしは、「熱帯性」で「earthy」


(魂が悦ぶことは?)


*    *    *


ゆみこさんが描いてくれる世界では、いろんな創造が起こっている。


原始のスープ。原始の雨。
地面? 池? 海? 山? 地球? 宇宙? うずまきは銀河? ビッグバン?
細胞が全ての記憶を思いだしたら、どんな表現も追いつかないだろう。


*    *    *


書きはじめる前に、入れる名前を訊かれていた。


「えみな? ゆみよ?」
「ゆみよ」


世界の中に文字が入った。
最初は「ゆみよ」しかなかったけれど……


「両方書く?」
「うん」

「“え”を描いたら、あふれだしてきた! ほら、“え”から出てるもん! でも、“え”は目立たなくていいみたいよ」


“え”は、あふれだす流れの中に見えなくなる。
“えみな”の役割は、行動し、展開すること。でも、終わりつつあるのかもしれない。
自分が求めている場所が見えたら。


ゆみこさんの瞬感画を見て気づいたのだけど、「な」という字の中には「よ」がある!


(ああ、そうだったのか)


音声では、それを感じ分けることや、伝えることは難しい。
気づいたときに起きた変化。


わたしの中で、これから使っていく「な」のエネルギーは、きのうまでの「な」ではない。

でも、そんなことは、誰にもわからないし、見える形で証明することができない。
そんな自分だけのプライベートな進化を、生活の中で、みんなが重ねているのだと思う。


音も形も、すべてが力をもっている。
わたしたちが表現するのは、その力の恩恵を受け取リ続けるためだ。


みんなも喜んでくれそうなものに出会ったら、誰にでも受け取れる形で結晶化させていく。
それが、アーティストではないだろうか?


そんなことを、ゆみこさんと向かい合い、できあがってく「瞬感画」を眺めながら、思っていた。


「ゆみこさん、これは、セッションなん?」


ゆみこさんが、何かをしている、というわけではない。


「描いてほしいという人がいたら、受けるの?」


今のところ、ゆみこさんは、ブログやフェイスブックなどで、告知するつもりはないようだった。
ゆみこさんにとって大切なのは、出逢うこと。


「描きたい!」


と思ったら、ペン先を止めることができないのだろう。


「描かせてほしい!」


に近い感覚だそうだ。
ゆみこさんが、「この人!」と決めた人に。


瞬感画が、何をもたらすのか?
ゆみこさんと向かい合う人は、どこまで扉を開くのか?
描き出されるものは何なのか?
出てきたものが、つながるものは何なのか?
それは何を引き出していくのか?


(一期一会のライブ)


描き出されていくペン先を、動画で記録したい衝動にかられた。
出来上がったものより、出来上がっていく過程をいっしょにすごすことが、大事なのだと思う。


たくさんの線があり、たくさんの動きがある。
いつ、どこを見ても、初めて迷い込むような、新発見のエリアがある。


人は、形を見たとき、そこに意味をつけずにいられない。
物語を創らずにはいられない。


創造的な人なら、きっと、ゆみこさんの「瞬間画」の中に、自分の中への無限のアクセスコードを見つけ出せるだろう。


*    *    *


両面、書いてもらって、ランチタイム。一時間くらいだろうか?

そのあと、ゆみこさんがわたしに会いたいと思った「本題」が登場する。


ゆみことゆみよ。
重なる二つの音。
この二人が出会うと、ことだま的にどういうことが起こるのか? というサンプルのような出来事を体験した。


(書きたい)


つづく。