からだは、
まるごとぜんぶ使うようになっている。
「奪われる」と「与えられる」は同じ。
「奪われている」と思うと焦る。
でも、それは、
「与えられている」
優勝する身体を。
* * *
何かを頑張れる時っていうのは、能力が向上しているので、たくさんのことを処理できる身体になっている。
いろんな部分の、いろんな能力。
今まで使っていなかったところのレベルも、実は引き上げられている。
使ったことがないから、気づかないだけで。
だから、どんどんやることが集まってくる。
からだは、まるごとぜんぶ、使うようになっている。
* * *
お給料をもらっている仕事以外の活動が活発になってきた。
自分からアクションを起こしているので、当然のなりゆきだ。創造的なものだから、忙しくても嬉しい。
ところが、それに付随して、仕事まで忙しくなってきた。
(なぜ?)
ルーティーン業務なら心構えができている。前倒しで進めることができる。
ところが、事務改善が求められる中で、効率化を図るためにシステム開発をすることになった。初めて担当する事業も、運用が認められなくなり、別の方式で行うことになった。
とりまとめを要するさまざまな照会が舞い込んできた。
とにかく「寝耳に水!」みたいなことが、立て続けに起こっている。
(プライベートも忙しいのに、やめてくれよー)
正直、そう思って、ふれくされそうになった。
そんなときに、「今日のダーリン」を読んだのだ。
ダーリン(糸井重里さん)の1月7日・8日の文章は、わたしにとって、すべてのセンテンスが自分を活性化してくれるエールだった。
いろんなことに答えが出た。
どの言葉からでも、受け取ったものを連ねることができる。
今日は、その中の一つについて書く。
読みながら、何度もリフレインしたのは、「やらせてやらせて」「自分を丸ごと使って」という響きだった。
たとえば、じぶんが生まれたての人だったとしたら、なにができるのかわからないままに、できることを探したり増やしたりしながら、なにかやらせて、なにかやらせてと動くんだろうな。
ここを読んだとき、新規採用で職場に配属されたばかりの自分を思いだした。
仕事をやらせてほしくて、覚えたくて、一人で任せてもらいたくて、新しいことを教えてもらうたびに嬉しくて、毎年、担当業務が増えていくたびに、誇らしい気分になっていた自分。
「やらせてやらせて」「わたしを使って」「もっとできるんです」「もっともっとできるんです」「お願いです。任せてください」
本当に、毎日、そう思っていたのだった。
それがいつのまにか、新しい仕事には手を出したくなくなり、安全で安心で時間内に終われる作業ばかりやりたくなっている。
・できることはぜんぶやったなぁと感じるのが、いちばんのあこがれだよなぁ。
・このいのちを、まるまるまるごと使い切れたら最高だよな。
このフレーズを読んだとき、ズキリとした。
(まるまるまるごと!)
(まるまるまるごと、使いきる?)
そして、思いあたった。
創作活動が三倍に増えたら、仕事だって三倍やってくるのだ。
だって、できる「身体」だから。
仕事が五倍に増えたら、創作活動も五倍できるのだ。
だって、できる「身体」だから。
そう思ったら、「仕事に忙殺される」という感情が消えた。
仕事だ、創作だ、と区別して好き嫌いしているのは、わたしの意識の部分だけで、身体はどちらも同じくらい「やりた」くて、自分を「使って」ほしいのだ。
どちらでレベルアップしても、それは同じように反映するのだ。
からだは、まるごと使うようになっている。
仕事では能力をセーブして、創作では全開するなんて、ありえない。
どんどんやることが集まってくる。
「やってやってやって」
キャパシティがあがっているのだから、当然そうなる。
仕事がヒマだから余力を創作につぎこめる! という状況は存在しない。
創作の世界でバージョンアップしたら、家事も仕事も見合った業務が要求される。
(こわーーー)
先日、リクトが新年度からのPTA役員抽選のプリントを持ち帰ってきた。1月の授業参観後に公開で行われるらしい。父兄が参加できない場合は、生徒が代行する。
「リクト、来週、PTA役員の抽選があるから、ちゃんと引いてや」
「だいじょうぶ」
「ほんま?」
「オレ、クジ運いいから、ぜったい当たるで」
「……」
うーん。
当たりたくないけれど、まるまるまるごと自分を使いたい身体が、欲しているのなら、当たるかもしれない。
できるのだろうか? と思うけれど、去年までの私とは違うのだから、しょうがないんだなーって思うと、納得できた。
一部分だけ突出するなんて、ありえないのだ。
だから、「二足のわらじを履いています」というのは、まだ、限界まで自分のからだを使っていない状態なのだろう。
限界に近くなればなるほど、もう、絶対にどちらかしかできない状態になってきて、まるごとぜんぶ使い切りたい自分を「選択」するのだろう。
それまでは、自分の能力を極限まで開発するために、いろんなことをやる。
やらせてもらえる。
* * *
1月10日の「今日のダーリン」は、「優勝」について書かれていた。
・スポーツのチームや選手たちには「優勝」という目標があります。
・応援席や観客席にいるときに、ぼくらは、好きな選手やチームに「優勝してほしい」と思っています。
・観客席から、じぶんたちが主役の仕事場に戻ってきたとき、ぼくらは「優勝」ということばを忘れています。
(優勝!)
優勝するチームや選手のことを考えた。
トレーニングや精神力。チームワークや判断力。
(優勝する自分は、これまでとは違う)
(優勝する自分は、特別)
(優勝する身体)
今年は、優勝する身体だ。
なんだってやる。
* * *
1月11日の「今日のダーリン」には、こんな言葉があった。
種を蒔いてなかったから、収穫がなかったんだ」と気づく夏がやってくるんです。
(種まき!)
そうだ。まさに「種まき」だと思った。
今、仕事が忙しくて、創作する時間が取れなかったとしても、それは種まき。
膨大な仕事に費やした時間と集中力とチームワークは、確実に身体のレベルをあげて、創作をするときのキャパシティも引き上げる。
今は種まきの時。
種を蒔くためには、土を掘り起こして耕すところから始まる。
どれだけ深く掘り起こすか。どれだけふっくらと水分や養分をためこめる土壌を作れるかで、後々の発芽や成長が変わる。
目先のことだけを考えると、焦ることや、苦しいこともあるかもしれないけれど、どんなものでもすべてワンネス。
「奪われる」と「与えられる」は同じなのだと、改めて思う。
創作をする時間が「奪われている」と思うと焦る。でも、それは、「与えられている」のだ。
優勝する身体を。
* * *
佐藤初女さんの、この言葉が好きだ。
冬の中にも春はあります
「春」は芽吹きの力。発芽の力。上へ上へと伸びていく力。横へ横へと広がっていく力。開花する力。
ためていたものが吹き出す力。
そんな力が近づいてくる。
* * *
薬日本堂漢方スクールのメールマガジン1月5日号の冒頭には、こんな言葉があった。
本年の干支「巳」は、福徳と財宝、長寿を与え、才能を開花させる守護神です。
巳(み、し)という文字は、胎児を描いた象形文字。
その形は、蛇が冬眠から目覚め、地上に這い出した姿を表しているとも言われ、「起こる、始まる、定まる」を意味しています。
何度も脱皮を繰り返す蛇は「復活と再生」の象徴
新しい年が皆様にとって生命輝く一年でありますように
この文章を読んだだけでも、巳年のわたしは、かなりテンションがあがった。
言葉はすごいと思った。
2013年は始まっている。
優勝する身体にシフトチェンジだ。
まるごとぜんぶ、使ってやろう。
まるごとぜんぶ。
浜田えみな
