青空のゆくえ


守られながら存在している。
誰にも傷つけられないし、誰も傷つけない。
誰もさみしくないし、さみしくさせない。


いつも見守られている。
生まれたばかりの頃のように。


だから、書くことができる。


*    *    *


年賀状って、とても特別なゆうびんだ。
たった一枚のはがきだけれど、その人がどういう過ごし方をしているのかが、わかる。
一年間のその人の過ごし方を見事に伝えてくれるはがき。


毎年変わらない達筆のはがき。
いつもセンスのよいはがき。
どんどん成長していく子供たちのはがき。
いつも新しいことにチャレンジしているはがき。


一年かかって届いた返事のようなはがきもある。
一年前にわたしが書いた年賀状の返事が、今年の年賀状に書いてあるのだ!


今年の年賀状を書くときに、昨年の年賀状を手元に取り出しているのだと思うけれど、とても不思議な感覚だ。ほんとうに、一年かかって、野を越え山を越え時空を超えて、私のもとにやってきたような気にさせられる。
それほどに、年賀状で交歓する人たちは、遠いところにいる。


やぎさんゆうびんのように、毎年、気の長い「おてがみ」を出す。
一年、元気に生きて、新しい年にまた、受けとりあうことを約束する。


だから、わたしにとって、年賀状は大切なゆうびんだ。
一年に一度の交歓。


*    *    *


いつごろからだろう?
わたしの書く文章を楽しみにしてくれる人が増えてきて、いつのまにか、わたしは特別な文章を書く人になっている。


考えてみれば、小学校時代の友だちも、中学校時代の友だちも、高校時代の友だちも、短大時代の友だちも、みんなが同様に、そのことを口にする。届く年賀状にもそのことが書いてある。


誰かれなく自分の書いた物語を見せていた小学校時代はともかく、それ以降、いったい、いつ、自分の文章を人に読んでもらったのだろうか?  
小説を書き始めたのは二十代後半なので、結局のところ、みんなが目にしていたのは、サイン帳か、文集か、おりおりの手紙なのだ。もしくは年賀状……


お手紙作家 浜田えみな(笑)


一番長い友だちは、四十年以上、そのほかの友だちも、二十年とか、三十年とかの付き合いだ。
会うこともなくなり、毎年の年賀状の文章しか読まなくなった今でも、わたしの言葉を楽しみにしてくれている。
そのことを、教えてくれる文面を、今年は、たくさんいただいて、嬉しかった。

そうしたら。


(相手からの賛辞をもらいたいから、心を動かしてほしいから、心に残してほしいから、文章を書いているのか?)


という思いが胸をよぎった。

今年は「笑顔」をテーマにしようと決めたから、印象的な笑顔のエピソードを振り返って、年賀状を書いた。


昔の友だちになればなるほど、記憶の中の笑顔は子どものころになっていく。学生の頃に戻っていく。
忘れていたことをたくさん思いだした。声が聴こえた。タイムトラベルだった。
スライドショーでアルバムをめくるようなひととき。笑顔のオンパレード。


そんな輝きの小箱を、それぞれの「今」に届けたい(投げかけたい)と思って書き進めた。


(相手のために書いているつもりだったけれど、自分のためだったのだろうか?)


そう思ったら、自分のしていたことが、とても、卑しく思えてイヤになった。

でも。
次の瞬間、思いだしたのだ。


人は、自分の世界の中でしか生きていないことを。


相手には、なんの影響も及ぼすことはできないし、相手の世界に入ることも、よりそうことすらもできない。
私が思う相手は、私の中だけのイメージ。


こんなふうに感じてほしいと思って書いた文章も、相手がどう受けとったかはわからない。
想像してみても、妄想にすぎない。


相手を変えることはできないし、相手の心を動かすこともできない。


*    *    *


子どもの頃に遊んだ、セメダインみたいな匂いのするチュープでつくった風船みたいな膜が、自分の世界と相手の世界を分けていて、決して行き合うことのないような、そんな感じ。


相手は膜の向こう側だし、自分すら膜に映った虹色の投影。


喜んでもらいたいとか、感じてもらいたいとか、受けとってもらいたいとか思うことは、全て幻想で、膜ごしに凹凸を作ることはできても、それは自分の世界を超えることはなく、決して相手の世界には届かない。

嬉しいとか、タイムリーで響いたとか、ありがとうとか言ってもらっても、それは相手の膜の振動で、私の振動とは共振していない。


無数のセメダイン風船の膜が、きれいな虹色で隣接しあっている。
わたしたちは、その中で、動いている。

だとしたら。


わたしの世界にいる人たちは、投影されたわたしの世界の住人。


わたしは、外の世界にいる人に何をすることもできないけれど、誰かから何かをされることもない。
わたしの世界にいる人は、わたしの大切な人にほかならない。わたしに必要だから存在するのだ。
ひどい人や、いじわるな人や、こわい人がいるわけがない。


(そうなのだ!)


わたしの世界の人が、わたしの思い込みなのであれば、最高に素敵に妄想すればいい。

そう思い直すことができた。

そして。


セメダイン風船は、さかさまにした金魚鉢のようになっていて、底は抜けている。


(つながっているのだ!)


そうでないと説明できないことがたくさんある。
みっちゃんの好きプロで体験した「おなかの人」たちの共鳴。
たびたび起きる、さまざまなシンクロニシティ。


わたしたちは、守られながら存在している。

誰にも傷つけられないし、誰も傷つけない。
誰もさみしくないし、さみしくさせない。

いつも見守られている。
生まれたばかりの頃のように。


だから、書くことができる。


*    *    *


年賀状の返事を、来年ではなく、今、書いて投函したくなるような。
すぐにでも会いたいと思ってもらえるような。

そんな文章を書き続ける。


浜田えみな


やぎさんゆうびんの人たちに、今年は会いに行こう。