言葉はライブだ。
同じ思いは生まれない。
差し出せない。受け取れない。
日々、更新。
どんなことも、勘違い。
それを「さみしい」と思うか、
「素晴らしい」と思うか。
どんな思いも、更新できる。
だから。
どんなものにも、
「愛」を探しに行く。
* * *
今年。
わたしは自分の輪郭をいろんな方法で確かめることを、試されたような年だった。
自分の手でなぞるように触れながら、さわれたものもあったし、どこか遠くに探しにいかなければ見つからないと思っていたものが、自分の中に見つかったりした。
他者に当たった光の反射で、初めて形を知るようなこともあった。そんな遠回しなことをせず、直球を投げてくれたらいいのに、と思った。
わかっている。
直球では受け取れないのだ。
はねかえってきた球だから、不意をつかれて受け止めたけれど。
ドストライク。
今日のテーマは、2012年 浜田えみなのドストライク 「結婚」と「不倫」が象徴するもの。
* * *
今年は当初から、 「とにかく結婚したい!」という人に、よく出逢った。
誰かを好きになりたいとか、何かを共感したいとか、安定したいとか、愛を知りたいとか、さみしさをうめたいとか、子どもが欲しいとか、そういう具体的な理由はなくて、ただ、「結婚したい!」と繰り返す人たち。
(なぜ?)
どの人も、聡明で、明るくて、魅力的に見えた。
(なぜ、結婚したいのだろう?)
(ひとりだと、どうしてダメなんだろう?)
恋愛したいのではなく、話を聞いてくれる人が欲しいのではなく、前に進むチカラをくれる人が必要なのではなく、ただ、「結婚したい!」を連呼する人たち。
その人たちにとって、「結婚」は何を象徴しているのだろう?
(結婚とは、どんなことだと思っているのだろう?)
耳を傾けていると、「結婚」=「安定」と思っている人が多かった。
「仕事を辞めたいから」という人もいた。
「結婚」したら、ものすごく幸せになれると信じて疑わない瞳に、逆にたじろぐ。
もしくは、
(なぜ私は結婚できないの?)
(なぜ私は恋愛が長続きしないの?)
(なぜ私はひとり?)
(なぜ結婚もしてもらえないの?)
(私は結婚してもらえないほど、へんな人間なの?)
という思いが根底にある人も少なからずいて、共感するとともに、
(もったいない!!)
と思った。届かないかもしれないけれど、伝えたい。
あなたの魅力は、結婚しているとかしていないとか関係ないほど輝いているのに。
「結婚」という言葉にとらわれなくなったら、向こうから手を広げてやってくるのに。
きっと。
* * *
つぎに。
「配偶者を持ちつつ、恋人がいる」という人に、男女を問わず、よく出逢った。
若い人もいたし、私より年配の人もいた。なぜだか公認の人が多かった。
夫と恋人。どちらが欠けてもダメだという人たち。
「配偶者」は何を、そして「恋人」は何を象徴しているのだろう?
(自分の価値を測る方法が誤っていないだろうか?)
(何を確かめたいのだろうか?)
そんな一人と話をしているときに、突然、湧き起こってきた想い。
あなたは頑張りすぎている。
複数の人から、きれいだとか、かわいいだとか言われていなくても、とても魅力的。
自分をそれ以上に見せる努力などしなくても、そのままのあなたでいいはずなのに。
* * *
どちらのタイプも、自分とは、かけ離れた境遇の人たちだった。
わたしは結婚して子供がいるし、夫以外に恋人はいない。
何かを暗示しているとも思えなかった。
ところが。
不意にわかった!
その人たちが繰り返す単語を別のものに置き変えたら、自分のことだった。
「小説を書きたいんです」
「ずっとやってるのに、なぜ、小説は書けないんだろう?」
「なぜ、認めてもらえないんだろう?」
「なぜ、長続きしないんだろう?」
「書いたものが社会的に認めてもらえなかったら、へんな人だと思われる」
「仕事はやめられない」
「仕事をやめたら、わたしはダメになる」
「仕事をやっているから、自分でいられる」
「その上でやりたいことがある。こっちもやめられない」
「振り向いてくれない表現の神様を、どうしても振り向かせたい」
ということだ。
「結婚したい」を連呼する人が、私にとって違和感があったように、
「小説を書きたい」を連呼している私は、ほかの人には、意味不明に違いない。
「小説」が象徴するものを、わたしこそ100字以内で簡潔にまとめられるのだろうか?
(この点については、先日、判明したので、長いブログを書いた) → 「ほんとうの願い」
では、「結婚したい」人たちに言いたいと思った言葉を、自分に投げたらどうなるのか?
あなたの魅力は、小説家になるとかならないとか関係ないほど輝いているのに。
「小説」という言葉にとらわれなくなったら、向こうから手を広げてやってくるのに。
きっと。
(ほ、ほんとー?)
* * *
「不倫」も同じだ。
常勤の仕事は「夫」で、あれこれやっている表現の楽しみごとは「恋人」。
わたしは、自分の価値を測る方法を誤っているのだろうか?
社会からどう見られるかを保証するために仕事をしているのだろうか?
表現活動への想いを高めるために制限された環境に身を置きたいのだろうか?
仕事は保険だろうか?
自分にしかできないことは何だろうか? 自分を必要としている人は誰だろうか?
表現活動は本当に必要なのだろうか?
がんばりすぎだと思われているのだろうか?
あれもこれも手を出したあげく、何もつかめないで、痛々しいのだろうか?
彼女に伝えたかったことを置き換えてみる。
必要以上に仕事をこなし、複数の人から、役に立つとか、ありがとうとか言われなくても、あなたはとても魅力的で、自分をそれ以上に見せる努力などしなくても、そのままのあなたでいいはずなのに。
(ほんまやなー?)
* * *
直球では受け取れない。
人から反射した光が、気づかなかった心の形を、浮かび上がらせてくれる。
不意にはねかえってきた球だから、受け止めてしまった。
ドストライク。
目の前を通り過ぎた人たちが教えてくれたのは、
自分の魅力を知ること。あがきの行動をやめること。
していることに結果を求めなくてもいいこと。
着ぐるみを脱ぐこと。気ぐるみをふりはらうこと。
* * *
人が感じることは全て、これまでに経験したデータを参照して導きだしたものだから、自分にしか使えない理屈だ。
その理屈を、他人に向かって投げかけてみても、別の言語を持つ人に違う言語で話すようなもの。
そして、誰の辞書もバージョンアップしていく。
言葉はライブだ。同じ思いは生まれない。差し出せない。受け取れない。
日々、更新。
人は、それぞれ、自分の辞書を参照する。
みんな、自分へのメッセージを発信しているだけ。
だから、勘違い。
どんなことも、勘違い。
自分の顔を決して見れないように。自分の声を決して聴けないように。
それを「さみしい」と思うか、「素晴らしい」と思うか。
それさえもまた、勘違いだ。
だけど。
どんな思いも、更新できる。
それだけは確かだ。
だから。
どんなものにも、 「愛」を探しに行く。
浜田えみな
