言葉で伝わるものなんて、ほんのわずかだ。
とらえどころのない思いをつかまえにいくのは、
心が躍る。
いくつ持てるかで自由になれる。
いくつも放し飼いにして自由になれる。
伝えたいのは、言葉じゃない。
受けとるものも、言葉じゃない。
* * *
「一号一惠(いちごいちえ)」は、村松恒平さんのプレミアムメールマガジン 「GOLD2012」 の配信に伴うリターンエッセイです。くわしくは、こちらを → 「GOLD2012」と「一号一惠(いちごいちえ)」
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今回は、第14号 「言葉以前の感覚について」 を読んで感じたことです。
文中 【 斜体 】 で表示されている箇所は、 「GOLD2012」 本文中の言葉です。
* * *
今回のメールマガジンは、わたしはわかりやすいものだった。
【言葉以前の感覚】 ……からだじゅうの細胞が、いっせいに目覚めるような言葉だ。
「わたくし・浜田えみな」という人間は 【言葉以前の感覚】 でできている。
見るもの、聴くもの、さわるもの、感じるもの、まず、生まれるのは言葉以前の感覚だ。それを、言葉に置き換える。すぐに置き換える。
何を見ても、何を聴いても、何をさわっても、何を感じても。
置き換えがたい感覚に出会い、表現を考えるのは楽しい。
言葉でないものを言葉にするのは、お産の介添えのようなものだ。表現することで、「感じた」ことが「実態」となり、誕生し、息づきはじめ、消えずに残る。
それを 【分節化】 というのなら、わたしは、人よりも 【分節化】 が好きなのだと思う。
雨なら雨。雲なら雲。虹なら虹。同じ雨も、同じ雲も、同じ虹も、ない。
感じる時期により、人により、すべて違う。
悲しいとか、嬉しいとか、つらいとか、おもしろいとか、そんな感情も。
明るいとか、暗いとか、寒いとか、熱いとか。そんな感覚も。
「ちがい」がわかるから、分類したくなる。
実態として取り出す方法は、言葉でなくてもいいはずなのに、わたしは、さらに言葉で 【分節化】 したくなる。
写真で 【分節化】 する人。絵で 【分節化】 する人。工芸品で 【分節化】 する人。音楽で 【分節化】 する人。アートの数だけ分節方法はあるだろう。
そして、わたしは。
別の媒体で 【分節化】 されたメッセージから喚起された 【言葉以前の感覚】 を、さらに言葉で 【分節化】 する!
「よかった」「きれいだった」「すごかった」「感動した」「おもしろかった」
そんな言葉を、どんどん分節化していく。自分の感受のアンテナのままに。
【だとすると、我々は絵を味わっているのではなく、自分の感覚を味わっているのだ。
絵画は自分自身の感覚を味わう媒体になる】
そのとおりだ。
美術館でも、写真館でも、博物館でも、動けなくなる作品の前で、わたしは味わっている。
作品から発せられる問いに応えようとして。
未知の感覚に名前をつけようとして。
それが「大自然の姿」なら、なおさらだ。同じ景色には二度と出会えない。
今、この感覚にインデックスをつけないと、二度と呼び戻せない!
写真家がシャッターを押すように、画家がスケッチをするように、音楽家が音符を書きこむように、わたしは、分節化する言葉を探している。
そうか。 【分節化】 したいから、あちこちにふらふら出かけていくのかもしれない。
新しく感覚を開拓したいから、言葉以前の感覚がうずまくところを、求めて。
文章表現で分節化する。この感覚が、 【文章を書く身体】 なのかもしれない。
文章を読まない人、書かない人には、なんのことかわからないだろう。
私にとって、同じ言葉は一つとしてないのだ。
「りんごが好き」の「好き」と、「浜田省吾が好き」の「好き」は違うし、「文章を書くのが好き」と「本を読むのが好き」の「好き」もちがう。
目に見える文字の形は同じだけど、ちゃんと心は別の感覚を受けとめている。そのちがいを感じとっている。
わたしは「言葉」を受けとっているのではない。言葉に包括された 【言葉以前の感覚】 を感じている。
言葉を差し出しているのではない。分節化した 【言葉以前の感覚】 を届けたいと願っている。
その感覚を楽しめる人が、文章表現を楽しめる人なのだろう。
世の中は、そんな人ばかりではない。
言葉で伝わるものは、ほんのわずかなのだ。
* * *
メールマガジンの中で、 【アウトサイダー・アート】 という言葉があった。
調べてみると、
正式な美術・芸術教育を受けずに、既成の芸術の流派や傾向にとらわれず、わきあがる思いのまま表現した作品のことで、名声を欲することなく、発表するあてもないまま独自に制作しつづけている者の芸術も含む。狭義で、障碍者の作品を指して言われることがあるが、そうではないそうだ。
創るほうに 【アウトサイダーアート】 があるのなら、観るほうは、もっとアウトサイダーでいい。
既存の知識や歴史の理解がないと観れないと思うと、美術・芸術鑑賞は敷居が高いけれど、ただ、その前に立ち、作品が放つ 【言葉以前の感覚】 を感じることに意識を向ければいいのだから。
(どういいのかわからない。どう感じていいのかわからない。何も思わない)
そう思う人もいるだろう。でも、実際は、何も感じていないことはない。
村松さんは、その「感覚」は、かすかなほうがいいと書いている。
実際、美術館や博物館には、いろいろな人がいる。人々の反応はさまざまだ。
たとえば。
京都は、時期により、バスツアーに美術鑑賞が組み込まれていることが多いから、全身で関心のないことをアピールしながら、なだれ込んでくるおじさん団体もいるし、学生、外国人など、年齢や国籍もさまざまだ。
西洋絵画の展示よりは日本の古典美術系の展示に人気が高く、年配のご婦人の教養が高いように感じる。夏でも着物を召され、信じられないような鳥獣戯画デザインのバッグや扇子を持っていて、目が釘付けになる。
会話の内容も、美術の技法に関することもあれば、お茶やお花の裏世界のことだったり、歴史に関することだったり、ほかでは聞けない話題が多く、得した気分になる。
仏教美術系の展示だと、大学のゼミと思われるグループが多い。講師が生徒にレクチャーしているときもあるので、時間が許せば横で聞いているとおもしろい。
兵庫では、メモをとっている学生が多いように感じる。
(いったい、何を書いているのだろう?)
と、いつも不意義に思う。また、鑑賞している人たちの服装が洗練されている。
県立美術館の最寄駅は、阪神電車の岩屋かJRの灘なので、さほどでもないけれど、市立博物館は旧居留地にあり、博物館までの道が、おしゃれな店やファッショナブルな人であふれているので、あかぬけない恰好で行くと、とっても恥ずかしい。
奈良は奈良公園の中にある。まわりには興福寺があり、春日大社があり、大仏殿があり、たくさんの鹿がいて、観るものにことかかないから、団体の出入りは、京都よりは少ないと思う。
正倉院展のときだけは全国から人が訪れ、とんでもないことになるけれど、そのほかのときは、ゆったりしていて、落ち着いて鑑賞できる。奈良の人も、奈良を訪れる人も、美術館などにあまり関心がないのではないかと思うほど。
大阪は……。なんというか、美術鑑賞者がアウトサイダーだ。
他府県から来た人はビックリすると思う。
先日、大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室に、佐伯祐三展を観に行ったとき、わたしのすぐあとから、おばちゃん二人が入ってきた。絵の前に立ち、しばらく黙って観ているので、
(佐伯祐三が好きなのかな?)
と思っていると、小柄で太ったおばちゃんが、隣の背の高いおばちゃんに、おもむろに
「油絵やな」
となりのおばちゃんも、
「そやな」
……誰かに招待券をもらったのだろうか。
そのあとも
「風景やな」
とか言ってるので、笑ってしまった。
ほかにも、コレクション展などで、必ず、「これ、ピカソやな」と、大声で言う人がいる。
難波のホテルモントレにある山王美術館に行ったときも、おもしろかった。
ホテルの二十二階に設置された美術館は、洋画・日本画・陶磁器の三部屋を持ち、それぞれ企画展覧会を開催している。
たまたま訪れたとき、洋画は藤田嗣治で、日本画の部屋は上村松園の美人画だった。
このとき、一緒に館内にいたおばちゃん三人組は、明るく闊達で、テンションが高く、学芸員のおじさんに女子学生のように質問しまくっていた。
そばにいた私は、ホテルモントレグループが美術品を多く収蔵している理由だとか、京都のモントレにはルノワールがかかっているとか、山王美術館のネーミングの由来とか、藤田嗣治の絵画のエピソードとかを、一挙に知ることができた。
また、日本画の部屋に入ってからは、上村松園の名しか知らなかった私が、同性のネームプレートを見て
「松篁さんと、淳之さんって、誰だろう? 息子かなあ。兄弟かなあ」
などと思う隙も与えず、
松篁さんが息子で、淳之さんは孫だということ、松篁さんの作風、どのような絵が得意で、どういう人かということ、淳之さんの描く鳥は松篁さんとは、また違うということ、自宅に鳥をたくさん飼っているということ、松園さんもご苦労されたのだということなどを、
(親戚ですか?)
というほど、フレンドリーかつ詳しく、実況中継しているのだった。知っているおばちゃんが、知らないおばちゃんに!
日本画展示ではなく、お昼のワイドショーを観ているかのよう。
アウトサイダー!!
* * *
先日、とても印象に残る絵を観た。
色使いが不思議で、楽しい。ギャラリーに架けられた絵をぐるりと見渡して、浮かび上がってくる特徴的な色は、マゼンダピンク。ブルー。オリーブ。
ほかにも数えきれないほどの色彩が踊っていた。青が、ギリシアあたりの絵皿の作風のように明るい。
楽器を吹いているおじさんの表情が、どれも楽しそうだった。
絵が踊っている。絵が笑っている。線が踊っている。線が笑っている。色彩が踊っている。色彩が笑っている。
画面から、音楽が飛び出している!
どの絵からも、音楽が聴こえてきそうなのだといえば、想像してもらえるだろうか。
カーキ色のモノトーンで描かれた年老いた人物の油絵もあった。
ホームレスを描いたのだと言われれば、なるほどなあと、うなづいてしまいそうな作風だ。
だけど、その老人の顔は、賢者のように穏やかだ。壁にからだをもたせかけ、くずれるように腰をおろしているけれど、何か楽しい音楽を聞いているかのように、とじた目も、かしいだ肩も、スイングしている。
明るい色など使っていないのに、絵には悲壮感がない。
ほかの絵も同じだった。どの絵も弾んでいる。
「山下清みたいな人です」
と、画廊のオーナーさんは言った。
最初、風貌がそうなのかと思っていたけれど、体型や雰囲気のみならず、すべて含めて、ということらしい。
もう六十歳近くなるその画家は、縁あって、画廊とは十年来のつきあいで、毎年個展を開いているとのこと。
画家には、八十を超える父親がいて、家庭での身の回りのことは、すべて父親がしているそうだ。毎年、個展開催のときは、必ず父親がつきそって挨拶に来ていたけれど、今年は、歳とって行けなくなったので、よろしくお願いしますと電話があったそうだ。
画家は、身の回りのことは何もしないけれど、食べることと、旅をすることは好きで、観てきたことを、家で作品にしていて、その点も「山下清みたい」なのだと、オーナーさんは話してくれた。
楽器をもつ人の絵だけではなく、建物を描いたものからも、人物だけを描いたものからも、音楽が聴こえてきた。耳に音が聞こえるわけではないから、音楽の波動が伝わってくるといえばいいのだろうか?
そして。
どんな色を使い、どんなしぐさをしていようと、登場人物の表情が、明るい。
(なぜだろう?)
と考えていた。画家のことを知って、納得した。
村松さんが、表現の会で話されたことが、よみがえってきた。
【「頭で書いたものは頭に伝わる」
「心で書いたものは心に伝わる」
「魂で書いたものは魂に伝わる」】
画家は、技法の教育は受けていない。ただ、楽しんで色をおく。内なる世界にわきだしたものを、独自の手法でキャンパスに描き出す。
自らが楽しくて楽しくてたまらないから、それが絵に表れるのだろう。
楽しんで描くから、登場人物が楽しんでいるのだろう。
そこには、計算も技巧も技法もない。
何かを創るために描くのではなく、うまく描こうと思って描くのではなく、伝えるために描くのではなく、逃げるために描くのではなく、生活のために描くのではなく、ただ、楽しいから描く。
圧倒的な力で、その思いは伝わってくる。
魂で描く。
……
魂で描く妨げになるものを、わたしたちは山ほど抱えている。
手放すことも難しいまま。
* * *
今回も楽しく書いた。
【言葉以前の感覚】 とらえどころがなく、表そうとしても完璧に表しきれるものではない。
だけど、伝えたいと思うし、忘れないようにしたい。
それをつかまえにいくのは、なんて心躍ることだろう。
言葉で生け捕りにするのだ。
冒頭で、「浜田えみなは言葉以前の感覚でできている」と書いた。ほかの人がどうなのか、わからなかったからだ。
だけど、今、誰もが、「言葉以前の感覚でできている」のだとわかった。
【言葉以前の感覚】 を 【分節化】 する手段を、いくつ持てるかで、自由になれる。
いくつも放し飼いにして、自由になる。
浜田えみな
今回のギフト
自分は、言葉(文章)を伝えたいのではないこと
人は、言葉(文章)を伝えようとしているのではないこと
【言葉以前の感覚】 をつかまえに行き、心の牧場(まきば)で放し飼いにする
言葉による分節化について
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次回、大阪Wセミナーは9月)開催です! 詳細は決まり次第、ご案内します。
日時 平成24年9月9日(日)
10:15-12:45 「表現の会」(何のワークかは、お楽しみ!)
13:30-17:30 「SBAセミナー」(再受講制度あり)
場所 京橋井戸端ステーション
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