それぞれに会話があり、生活があり、人生がある。
そのかけがえのない「一瞬」が
「永遠」となって、息づいている。
特別でなく、ささやかな存在である誰もが、
「ひとりではない」
どんなに小さく描かれている人たちにも、
その人の人生が伝わってくる。
* * *
笹倉鉄平さんの絵を観てきた。
原画を観るのは初めてだった。
阪急電車西宮北口から徒歩十五分ほどの地に、「笹倉鉄平ちいさな美術館」がある。
「ちいさな美術館」という名のとおり、住宅街の中にある個人宅のような美術館だ。
当然、看板が出ているだろうと思っていたら、どこまで歩いても、そんなものはない。一本道なので、さすがに通り過ぎたと思って、そのあたりのおばさんに聞いてUターンした。汗だくだ。
さて、美術館の前に立ったものの、普通の住宅にあるようなノブ式のドアだ。
(開けてもええんかな?)
(開いてんのかな?)
ノブがまわったので、ほっとして顔をあげたら、すぐ鼻先に受付カウンターがあった。
確かに美術館であったことに安心して、料金を払いながら、館内を見回すと、
(え、二間だけ?)
住宅展示場の内覧会に来たようだった。
モデルハウスの壁に、絵もかかってますよ…… といった風情で、美術館というよりは、よそのおうちにおじゃましているように恐縮してしまう。
観ているうちに、そんなことは忘れてしまったのだけど。
今回は、「犬がいる風景」という企画展だった。
最初の絵は、「ビスケットショップ」という縦長の油絵。
白をたくさんふくんだ、あたたかなテラコッタの色に、まず目を奪われた。筆使いにも。
ここ数日、「金山平三」の雪と川と村の世界(!)で生きていたので、
(ああ、油絵は、こういう描き方もできるんだ……)
という新鮮さもあったし、ヨーロッパ留学時代はともかく、日本で日本の風景を描き続けてきた金山平三のパレットには決してのっていなかった色だと思った。
遠景を描いている平三さんと、すぐ目の前のビスケットショップや、のばせば届くところにありそうな、木々の葉やこもれびや噴水や石畳の「声」を聴きとるように描かれた筆致は、技法がまったく違うので、最初は、驚きと、とまどいがあったのだ。
商業的なイラストレーション、グラフィックデザイン的なものと、絵画作品の違いとでもいうふうに。
でも。
あたりまえのことだけど、鉄平さんは絵がうまい。(字もうまい!)
クロッキーや鉛筆画で、油絵という技法を離れたら、金山平三(のクロッキーや鉛筆画帖)との差異なんて、もう見つけられない。
確かなデッサン力は無論のことだけど、ほんものそっくりに描くだけなら、パソコンのソフトで写真からエンピツ画でも水彩画でも油彩画でもフォトレタッチできる。
機械ではなく「人が描く」というのは、どういうことだろうか?
そのことを、実感できた。
紙片にラフなラインで描かれていながら、形だけを写し取っているのではなく、世界観そのものを映し取っている。
ただ見たままを描いているのではなく、変換して再構築している。
この「変換」作業のときに決して機械には教え込めない心の機微があるのだ。
だから、金山平三の描くものは、金山平三だし、笹倉鉄平の描くものは笹倉鉄平だ。比較にならないほど浅いが、わたしの描くものは浜田えみなだ。
そして。
鉄平さんの絵には会話があると感じた。いや、対話かも?
絵の登場人物たちに流れるコミュニケーションが伝わってくるのだ。
言葉ではなく、心の交換というべきあたたかい流れが、こちらの心にも、五感の全てに聴こえてくる気がする。
それは、絵の中に描かれている人物のしぐさや、視線や、立ち位置や、まわりの光や風や花や木や土や建物や小物たちの細部にいたるすべてから、伝わってくるものだ。
鉄平さんの絵の中には、とてもたくさんの人たちが描かれているものがある。
ビーチで思い思いに過ごす人たち。街の通りを行き交う人たち。大きな広場に集まる人たち。その人たちそれぞれに会話があり、生活があり、人生がある。無理やりに画面に押し込まれたわけではなく、自然で違和感なく平和で、そのかけがえのない「一瞬」が「永遠」となって、息づいていることに驚いた。
しかも、特別でなく、ささやかな存在である誰もが、「ひとりではない」ことが伝わってくる。
画面の中に一人で描かれている人にも、家路を急げば待つ人がいることや、ひとりぼっちでさまよっている犬にも、しっぽをふれるご主人がいることがわかる。
どんなに小さく描かれている人たちにも、その人の人生が伝わってくる。
鉄平さんの人生観なのだろうと思った。
それとも、観る人の人生観を映すのだろうか? だとしたら、うれしい。
* * *
実は、うちのリビングには、笹倉鉄平さんのシルクスクリーンがかけられている。
一九九九年、マンション購入のお祝いに義父母が贈ってくれたものだ。生まれて初めて多額のローンを抱えていたので
(絵より現金がいい)
と思ったけれど(苦笑)、残るものを贈りたいという義母の希望で、笹倉鉄平さんの絵の即売会に行った。若いころ、てんちゃんが笹倉鉄平を好きだったことを、義妹が覚えていて、義母に注進したからだと聞いた。
高額の買い物などしたことがなかったし、嬉しい気持ちより、
(選ばなくてはいけない)
というプレッシャーでいっぱいだった。義父母宅にリクトを預けて、二人で画廊に赴いたのだと思う。
絵は美術館でしか観たことがなかった私は、笹倉鉄平と言われてもよくわからず、ポスターとシルクスクリーンの違いもよくわからなかった。
てんちゃんは、藍とモーブのグラデーションの絵が、笹倉鉄平っぽいと最後まで言っていたけれど、既にリクトが生後数か月。新築マンションのリビングは、赤ちゃん布団や、買い置きのおむつや、コットンや、おっぱいやウンチやオシッコのにおいで充ちていて、たまに遊びにくる友だちの赤ちゃんたちのスペースになり果てていたので、ヨーロッパのたそがれの街や、おしゃれでモダンな色彩は、まったくそぐわなかった。
夫婦ではなく家族の一枚として選んだのは、内容よりも色合いが決め手で、言わなければ笹倉鉄平が描いたとは誰も気づかないような、森の中の湖を描いた風景画だった。
さんさんと陽光のふりそそぐリビングで、森林浴のような絵の対面の壁にもたれて授乳したり、その絵の下で、リクトに赤ちゃんマッサージをしていたことを思いだす。
……
前置きがすごく長くなってしまったけれど、その絵のタイトルを、美術館のテーブルにあった図録で思い出した! ということを、書きたかったのだ。
(わ。こんな題やったんや)
あまりにも大げさなタイトルに驚いた。
「永遠に」
(いったい、今、いくらくらいになってるんやろ?)
家に帰って値段を調べようとネット検索したけれど、ちらっと見た限りでは販売されていなかった。値段もついていなかった。あまりにも値下がりしていたら悲しいので、それはそれでよかった。
検索キーが抽出してきたブログ記事などを読むうちに、この絵を購入したり、贈られたりしたのは、たぶん、当時のわたしたちと同じような新婚か恋人どうしの若い人たちだと気づいた。
持っている人たちは、想い出もふくめて、とても大切にしているようだ。
なぜなら、普通の森と湖を描いているように見えるけれど、この絵の中には手をつないだ男女が小さく描かれ、映し出された湖面では、その二人がキスをしている。現実にはありえない、おとぎ話のような光景が描かれていた。
今、文章にするだけで恥ずかしい。
当時もかなり恥ずかしく思ったけれど、それでも嬉しく選んだことを覚えている。なんて初々しい。らぶらぶ生活まっただ中だからなんでもアリだ。
そんな絵を手放す人はいないのだと思う。
「コツメが結婚するときにあげよか」
とてんちゃんが言う。
画面の中の二人は、わたしたちであり、コツメたちであり、全国の二九五組の人たちであり、観る人たちすべてだ。
永遠に。
浜田えみな
○○みたいな作品 と称する表現を耳にするけれど、それはありえないのだと気づいた。
人は、自分が受けとったものを自分だけの方法で変換して、自分が伝えたいものを表現する。
どんなに似せて表現しても、同じように見えても、まったくちがうものだ。
十数年前、笹倉鉄平さんの作品を観ていたとき、描かれた人生観など、響いてこなかった。
それは、自分に受けとる用意がまったくなかったからだ。
少しは、成長できてうれしい。


