種に包括されているもの。
その小さな粒に
プログラミングされている起動スイッチ。
時間。空間。生命。
のぼりたつオーラを鎮めて、
雄弁に沈黙している。


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「一号一惠」は、村松恒平さんのプレミアムメールマガジン「GOLD2012」の配信に伴うリターンエッセイです。くわしくは、こちらを → 「GOLD2012」と一号一惠(いちごいちえ)

今回は、第七号 「物質・生命・精神」を読んで感じたことです。
文中 【 斜体 】 で表示されている箇所は、「GOLD2012」 本文中の言葉です。


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村松さんのメールマガジンが届いた。

今回の目玉はなんだろう? 

【生物-物質=精神】 の公式だろうか?

【生命とは何か】 を切り口にして説明された物質と精神の概念は、すごく理解しやすかった。
また、
【生物と磁気プログラム】 というトピックにおいて、取り上げられた【種】


これが、今回の冒険のスイッチだ。


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「一号一惠」 ~ 種 ~


種に包括されているもの。
その小さな粒にプログラミングされている起動スイッチ。
時間。空間。生命。
のぼりたつオーラを鎮めて、雄弁に沈黙している。


ヒノキの種子は、自分が生育するに足る環境になるまで、発芽せずに、じっと待つという。
何百年でも。

そびえたつ梢の根元には陽射しは届かない。うっそうとした森に光が射し込むのは、大木に雷が落ちるか、朽ちるか、伐採か……。


その、何百年に一度の瞬間を逃がさずに発芽する種子たち。


隣の芽より先に大きくならなければ、自分に光は届かない。
隣の芽より、早く遠くまで根を伸ばさなければ、水も養分も得られない。
何百年も待った種子たちが、競争をする。


そんなふうにして勝ち残ってきた木が、千年生きる。
千年生きるヒノキの種子には、どんな指令がプログラミングされているのだろうか。


わたしは、見分けることができるだろうか?
何百年も待って、生きるための競争に千年勝ち続ける種子と、発芽もせずに朽ち果てる種子を。


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メールマガジンが届いたとき、だいこんの種のことを考えていた。
茨木県竜ケ崎JAが主催する「筆メッセージ」という公募に作品を応募しようと思ったからだ。→ 「べっぴんだいこん」
名産のトマト・ダイコン・スイカ・米のおいしさや、生産者へのメッセージを、筆文字や絵で伝えることが条件だった。素材はどれでもよかったのだけど、くっきりと映像が浮かんできたのが、だいこんだった。


わたしは、だいこんのおいしさは知っているけれど、だいこんの花を見た記憶がない。
だいこんの花の清楚さ、可憐さは、いつも傍にいて、丹精こめて見守る生産者だけが知っている。自分にとって、かけがえのない人の魅力というのは、ほかに知る人もない、控えめな魅力だ。
そんなふうに、自分にとって大切なものを、愛したいし守りたい。愛されたいし守られたい。
そんな思いを胸に、慣れない筆でメッセージを書いた。
 
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だいこんの花。
おいしいと喜ばれるだいこんは、花が咲く前に食べられてしまうから、花は咲かない。種も採れない。
だいこんの花は、あの青々とした大根葉の根元から、まっすぐに花茎を伸ばして、四枚花弁の白や薄紫の花をつける。


花茎のことを「薹」というそうだ。
食べごろを逃して畑に捨て置かれた野菜から花茎が伸びて硬くなることから、「薹が立つ」というのは盛りが過ぎてしまったようすを言うのだと知り、それは、あまりにも、人間の都合だけの身勝手な話だと感じた。

(だいこんは、どう生きたいのだろう?)


おいしく食べてもらうことだろうか?
花を咲かせて、種を残すことだろうか?


(人間はどうだろう?)


おいしく食べてもらうとは、どういうことだろうか? 

自分が幸せに生きること? 社会のために貢献すること?
花を咲かせて、種を残すとはどういうことだろうか? 
子どもを産み育てること?


その考察については、一行や二行で表せるものではないけれど、どんな生き方も、どちらが勝ちとか負けとかではなく、プログラムされた天命だと思う。

食べられるためのだいこん。
花を咲かせて種をのこすためのだいこん。
人間だって。


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農業の実態を知らなかったので、生産地の一角には、出荷されるだいこんとは別に、翌年の種を採るための畑があり、そこでは、だいこんの花が咲くのだと思っていた。


どのくらい、種がとれれば、翌年の収穫に足りるのだろう? 花の咲くだいこん畑は、どのくらいの広さなのだろう? だいこんの花はいつ咲くのだろう? だいこんの種は、どんなふうになるのだろう? どんな袋に入っているのだろう? いくつくらい採れるのだろう? だいこんの種はいつ蒔くのだろう?
…… 

検索キーをたたくと……


まず、飛びこんできたのが「固定種」「交配種」という言葉だった。

「固定種であれば種をとって植えてもいいけれど、交配種はよくない」などと書いてあり、なんのことなのか全くわからない。

追って、この二つの言葉を調べていくと……
そこに繰り広げられていたのは、めくるめく交配の世界だった。


(何から書けばいいのだろう)


あまりの不思議さと、おもしろさに、ぐいぐい引き込まれていった。


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「固定種」というのは、その土地の気候や風土の中で、何世代にもわたり、絶えず淘汰され、安定した形質が受け継がれる種で、親の形質は単一。

受けつがれてきた伝統の味と、気候の変化に耐えながら旨みを蓄えた、旬の豊かな味わいを持っている。
生育速度は遅く、不揃いだけど、大きく育ったものから順に、長期間収穫できる。一度、種を買えば、その後は自家採種できるので、翌年も親株と同様の作物が収穫できる。


「交配種」というのは、異なる性質の種を掛け合わせて作った雑種の一代目のこと。
どの品種のどの性質が欲しいかを決めて親とする。両親となる個体の自家受粉を繰り返して、遺伝子が弱り、子孫を残せなくなったとき(雄性不稔性という)、その個体どうしを掛け合わせると、メンデルの法則により、一代目に限り、親の性質が必ず顕れ、両方のよいところがさらに強く発言する「雑種強勢」という現象が顕れる。

成長が早く、揃いがよく、均一に成長するので、栽培計画が立てやすい。
ただし、二代目以降は、親の遺伝子のどの形質が引き継がれるかを特定できない。
また、交配時には、親の遺伝子が弱っている状態なので、二代目以降は採種しないほうがよいとされている。


メンデルの法則なんて、いつ習ったのだか。
あたりまえのように、大量に供給される均一な野菜を、なんの不思議もなく食べていた。

なぜ、交配種を植えてはダメなのかもわかった。
なぜ種屋さんが存在するのかもわかった。


食べている野菜の味が、小さいころ舌で覚えているものとは違うことも。
スーパーの棚に並ぶ野菜が、どれも同じ味で、均等な大きさをしていることも。


そのような野菜を作るための、気の遠くなるような淘汰と、交配作業の成果なのだ。


植物の生殖のことなど、何も知らなかったことに気づいた。
目につく花には、雄しべと雌しべがあるから、植物はみんなそうなのかと思っていたら、一つの株に雄花と雌花の区別があるものや、株そのものが、雄株と雌株に分かれているものもあるそうだ。
いくらたくさん植えても、雄株だけでは、実らない。


業界用語が感慨深かった。

・雑種強勢(ざっしゅきょうせい)
・除雄(じょゆう)
・蕾受粉(つぼみじゅふん)
・自家不和合性(じかふわごうせい)
・雄性不稔性(ゆうせいふねんせい)


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「自家不和合性(じかふわごうせい)」の話が、ずしりと腹にこたえた。


だいこんなどアブラナ科の野菜は、両性花といって、同じ花の中に雄しべと雌しべがあるが、同じ花や同じ株の花粉では受粉しにくい性質を持っている。
なぜなら、新たな遺伝子が組み込まれることで、雑種化が進み、より環境に適した強い生命力を発現できるからだ。これを、「雑種強勢」という。


自家受粉をくり返すと、生きる力が弱まり、生殖能力を失くすという。
長年やっていて、実らないことが、「自家不和合性」を起こしているのだとしたら、それは「雑種強勢」のチャンスではないだろうか?


なるべく遠くの、なるべくかけ離れた花粉で受粉する。


何か新しいものを組み合わせることで、別の因子が発現するし、生き残る力を活性化できる。
どうしてもやりたいことがあるなら、それから、もとの夢に戻って、どんどん、雑種強勢してゆけばいい。


そう考えてみると、身近な例は山のようにある。
ジャンルを変えて成功し、羽ばたいていく人たち。


自分の中の遺伝子地図には、もっとでかい宝物が眠っている。


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「それはいつごろの話だろう?」

と、村松さんは、わたしに言った。 → 「スキマスイッチ」


思いこんでいる自分の性格は、種のもつあらゆる能力のうち、たまたま、顕れているものだ。

表に出ない潜在因子としてもっている無限の能力は、必要とあれば、環境に適応して、生き残るために芽を出してくる。

世界の産地から運ばれてきた種が、日本各地にばらまかれ、それぞれの風土に合わせて、生育の形状を変えて、伝統野菜となっていったように。


(なんだ、思いこみなんて、捨ててしまおう)


そう思った。


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ふと、均一化された野菜を、数十年にわたって食べているうちに、知らず知らずマインドコントロールされていたのではないか? と感じた。


自分で、種をまいてみればわかる。
早く出る芽。ゆっくり出る芽。ばらばらだ。
芽が出たら、育っていく。
早く成長するもの。ゆっくり成長するもの。葉の色も、茎の太さも、いろいろだ。
花が咲き、実が成る。
たくさん花をつけるもの。少ししかつけないもの。花の色も、それぞれ違う。
実がみのる時期も、かたちも大きさも、さまざまだ。


固定種の成長度合いの違いは、長い収穫を約束してくれる。
今日の実り。明日の実り。少しずつ長く食べられる。


早く出る芽が、丈夫に成長する芽だと限らないことも。
たくさん実をつける株が、おいしいとは限らないことも。

最後まで芽を出さなかった株が、虫にもやられず、病気にもならず、りっぱな実になることも。
少ししかつけない実が、とびきりおいしいことも。

日々の暮らしの中で、五感を通じて受けとっていれば、種のもつエネルギーの発現を信じることができる。


できのいい苗も悪い苗も。

人間の子だって、そうなのだとわかる。


いっせいに発芽して、いっせいに成長して、いっせいに実をつける交配種の野菜ばかり扱っていたら、その速度からはみ出した株は、切り捨てられていく。
同じ時期、同じ大きさ、同じ品質で、いっせいに並ぶ交配種の野菜だけを目にしていたら、規格からはずれたものは、手にも取らずに、とりこぼされていく。


均質にそろったものしか映らない目に、でこぼこのある人間は、どのように映るだろうか?
でこぼこのある自分は、どう映るだろうか?


種が伝える遺伝子は無限なのに、一代限りで消えていく、種を残せない交配種の野菜たち。
それを選び、手にとって食べているわたしたち。


表に現れる因子だけを見て、見えないものを感じることが、できない。


(できない?)


それはちがう。


種に包括されているもの。
その小さな粒にプログラミングされている起動スイッチ。
時間。空間。生命。
のぼりたつオーラを鎮めて、雄弁に沈黙している。


種が送ってくるメッセージを感じよう。消えそうにかすかな声でも。


もっと、いろんなことができる。
次に、出てくるものはどれだ。


*    *    *


というわけで。
文章が好きなだけで、いつのことなのかわからない思いを後生大事に抱えこみ、手放すことができない状況は、どうやら「自家不和合性」なのだとしたら、いつまでやっても実なんかならない。


(だとしたら、次にやるべきことは何なのか?)


なるべく遠くの、なるべくかけ離れた花粉との受粉。

文章を書く作業は一人だし、一人でしか書けないのだけれど、昨年から、誰かとつながってみたくてたまらない。


遺伝子がそう望むなら、今年は、なんでもやってみる。


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今回の村松さんのメールマガジンで取り上げられていたのは、物質・生命・精神だった。

生命は、精神だけでも、物質だけでも、その存在を顕せない。
村松さんが表した公式は


【生物-物質=精神】


それは、すなわち、


物質=生物-精神 
精神=生物-物質 だ。 


すんなり受け入れられた。


【種を生長させる力、それを生命力とも呼びますね】 と村松さんは書いている。


種について考察するうちに、


種=生命力+精神+物質 


ではないかという思いが、むくむくと湧いてきた。


種は物質であり、精神であり、生命力。
何百年経ても、発芽する。


私たちは、自分の中に、限りない可能性を秘めた種の宇宙をもっているのではないだろうか。
今、表に出ている性格や能力にとらわれず、どんどん進化していけるのだ。


メールマガジンの中で、心に残ったのは、

【物質の身体を得るということは、摩擦を持つことです】 という言葉だ。


(生きることは摩擦)


即座に思ってしまったあたり、


(なんて苦しい生き方をしているのだ……) 


と、へこみそうになったけれど、呼吸することも、歩くことも、笑うことも、泣くことも摩擦。
人とのふれあいも、喜びも、素晴らしいと感じることも摩擦。

今、生きていることを、あちこちになすりつけ、跡を残しながら、生きている。


浜田えみな


「GOLD2012」 第七号で受け取ったギフト


・種を感じること
・「自家不和合性」からの起死回生
・「交配種」のワナ
・生きることの摩擦