読んだら、
絵をつけたくなるような物語を書きたい。
* * *
わたしは二月生まれなのだけど、いつも、誕生日は、
(それどころじゃない!)
という状態になる。
二月は寒いから、それだけでも士気がにぶるのに、新年という「ハレ」から「ケ」への移行とともに、急にあわただしくなっていく日々。
にもかかわらず、絶望的に月末までの日数が少なく、追い打ちをかけるように季節行事が多い二月。
豆まきをして、チョコを作って、雛飾りをだしたら、
(えーっ? もう誕生日?)
なのだ。
誕生月は、パーマ屋さんもアロマショップも割引があって、優待メールやハガキばかりが届く。行けば行くほど得なのに、こうしている間にも、使えないまま貴重な二月が過ぎていく。
(誕生日には、何かしら特別なことをしてみたい)
イメージチェンジとか、新しい何かを購入するとか、フィジカルメンテナンスをするとか。
凛とした心構えとともに、次なるステージを意識して、所感などをキリリとしたため、心機一転の証を残すとか。
毎年思うのだけど、気がついたら当日なのだ。
(ほんまに?)
欲しいものもない。自分へのごほうびを考える時間もない。気がついたら、当日。
それだけ好きなことをしていたら、もういいでしょう! という声が聴こえてきそうだけれど、確かにそのとおり。
奥さんらしいことや、お母さんらしいことをしていなくても、てんちゃんはケーキを買ってきてくれて、コツメは、花束を用意していた。コツメは折り紙が大好き。去年は、なぜか「カニ」。 → ブログ記事 「なぜに、カニ?」
ぼよよん王子・リクトはそういうことにはまったく無頓着なので、
「りっくん、なんにも用意してないけど、今から創る!」
と、ケーキを食べながら、調子よく宣言してくれて、口だけのまま数日経過(笑)
* * *
誕生日に書くブログ記事というのは、少しは意識するところなのだけど、今年は「自販機地蔵さま」の話を書いた。
現代における自販機地蔵さまの冒険物語を、きっと書こう。
大橋英児さんは、自動販売機と、そこに寄せられる人の姿を、津々浦々、フォーカスされているけれど、中に入っている飲み物については、どうなのだろうか?
当然、ご当地飲料水なるものが存在するはずで、ネーミングや缶のデザインにも、その土地らしさや時代が色濃く投影されていると思う。
初めての土地を訪れたことを、最初に意識させてくれるのは、住む人の姿や言葉よりも、降り立った駅の自動販売機に並ぶ飲み物のラインナップだ。
* * *
「なんで、かさこじぞう?」
と、てんちゃんが訊くので
「自動販売機がかさこじぞうみたいだったから」
と、応えた。
てんちゃんは小学校の教師をしている。『かさこじぞう』は二年生の国語の教材だ。
「かさこじぞうには謎がある」
などと、とつぜん神妙な顔をして言うので、なんのことかと思ったら、
お地蔵さまが、じいさまの家を探しているときに
「じさまのうちはどこだ。ばさまのうちはどこだ」
というのがヘンだと言う。
お地蔵さまに笠をかぶせたとき、じいさまは一人で、ばあさまの話はしていないのに、知っているのはおかしいと。
わたしは、気にならなかった。
お地蔵さまは、地蔵菩薩で仏さまなのだから、誰の心の中も見通せる。ばあさまを思いやるおじいさんの心の中を、きっと読んだのだと思った。
おばあさんがエライとてんちゃんは言う。
おじいさんもエライとわたしは思う。
そして、ふと、思いあたった。
どう考えても、おじいさんたちの家には、食べるものがない。
春はまだ遠く、畑も田んぼも降り積もる雪の下だ。今後、生活の糧はどこにもない。
おじいさんとおばあさんは、覚悟をしたのではないだろうか。
家の中に残っていたすげで、二人で最後に編んだ傘を、お地蔵様にかぶせた。足りない分は、自分の頭を覆っていた、つぎだらけの手ぬぐいをかぶせた。
おじいさんとおばあさんには、もう、何もなくなった。
「これでええ、これでええ」
そう思って読むと、「やっとあんしんして、うちにかえりました」という本文も、最後に楽しく笑いながら二人で、もちをつく真似事をして、おゆを飲んで眠りにつくことも、今生との決別し、極楽浄土への旅立ちの覚悟とも思えてくる。
だから、笑いながら。だからおだやかに。
(…………)
おじいさんとおばあさんの、信じがたいような清らかさと静謐さは、すでに、今生と決別したからなのか。
(ほんまに?)
お地蔵さまの贈り物は、極楽浄土の世界なのだろうか。
地獄に落ちた人をも救うという、慈悲深い菩薩さま。
そんなことは、国語の時間に習ってない。てんちゃんだって、生徒に教えていないと思う。
「しあわせなお正月を迎えましたって書いてあるやろ」
「だから、それはもう、極楽浄土の世界やねん。マッチ売りの少女だって、死ぬ前に幻を見るし、フランダースの犬のネロだって、亡くなる前に一番見たかったものを見るねんで。お地蔵さまやし、仏教信仰と関わりがあるんとちゃうんかなあ」
そんなことを思ったのは、今が初めてだけど、どうなんだろう?
(ほんまに?)
昔話には、謎がいっぱい。隠喩がいっぱい。
* * *
「もっと、おかしな話がある。オレは授業のときに困ってるねん!」
「なんの話?」
「『てぶくろを買いに』」
「かわいい話やん!!」
(即座に黒井健さんの絵本が浮かぶ)
「なんでやねん、あんな母親がおるかぁ? 自分が怖くて行かれへん恐ろしい人間のところに、子どもだけ行かすねんでー? まだ、一歳になってへんのに」
「なんで、わかんの?」
「いつ生まれたんかしらんけど、初めての冬やねん! 雪を、初めて見てんから!!」
そうだ、こぎつねは、雪を見たことがなかったんだ。ある朝起きたら、一面の銀世界になっていて、そのまぶしさに目に何か刺さったと思って、びっくりするんだ。手の冷たさに驚いて泣くんだ…… と、冒頭のシーンがよみがえった。
「ほんまや!! めっちゃ小さいやん!」
「そやろ? そんな小さい子を一人で行かすかー? それに、なんで、片手だけやねん。両手とも人間の手にしたれよ、なあ?」
母親は、てぶくろをちゃんと買えるように、こぎつねの手を片方だけ人間の子どもの手に変えるのだ。こぎつねは間違えて、魔法のかかっていない、きつねの手を、帽子やさんに差し出してしまうのだが。
(もう、戻ってこれないかもしれない、二度と会えなくなるかもしれない)
そんな危険なところに、母親が幼子を行かせたりするだろうか?
「ありえへんやろ!」
と、てんちゃんは、力説するのだ。
言われてみれば、そのとおりだ。ネットで検索してみると……
出るわ出るわ。母親の行動の不自然さは、ちゃんと研究対象にもなっていたし、論文まであった。
しかも、ラストの母ぎつねのつぶやき
「ほんとうに人間はいいものかしら」
という言葉は何重にも考察されていた。
新美南吉が手を入れた推敲前の文章まで掲載されていた。
さらに、この母ぎつねの行動には、母親というものの善悪の二面性が描かれているという。
新美南吉は、幼くして生母と死に別れ、継母に育てられた…… ということにまで言及されていて、
(えぇぇぇぇーっ そんなに深いところまで読むものだったのかー)
と驚いた。
初めての世界への不安と好奇心にあふれ、母親の愛も心配も葛藤も、よそに、暖かなてぶくろが嬉しくてたまらない子ぎつねの無邪気なかわいらしさにひたっていたら、とんだ「爆弾」を抱えていたものだ。
妻として・母親として・女性としての二面性。
人間としての二面性。
ものかきとしての二面性。
そんなものを考え、心に問うとき、母ぎつねの行動を「ありえない」と言いきることなどできない。
(新美南吉は、何を書こうとしていたのか?)
あらためて『てぶくろを買いに』の全文を読んだ。
こんな文章を書きたいと思わせる、みずみずしさだった。ことに冒頭のシーンは名文で、雪の日の森の朝の、しんと冷えて澄み渡る空気がピシリと頬にささった。
こぎつねは、ただ、守られ、かわいく、愛らしかった。
母ぎつねの葛藤も伝わってきた。
物語は、裏の裏まで…… 作家の生い立ちにまで立ち返って、巧妙に隠されたひだの裏を探すようにして、あるのかないのかもわからないことまでも、探りにいかなければならないのだろうか?
(そんな……)
* * *
(※すみません。ここまで、「前おき」です!)
『飴だま』と、『ゲタニバケル』という話を知った。
お侍が出てくる話をいうことで、とりあげられていたからだ。
読んでみた。
どちらの話にも、母親と子どもが出てくる。子を思う母親の気持ちがストレートに伝わってくる。子を見つめるまなざし。子を思う気持ち。そこには、なんの裏も表もない。葛藤もない。ただ、愛情だけだ。
あらすじを記す。
『飴だま』
春の暖かい日の渡し船の上での出来事だ。
二人の小さな子どもを連れた母親が乗りこみ、船が出ようとするときに、黒いひげをはやして、強そうな侍が飛び乗ってきた。
春のうららかな日和に、こっくりこっくりと眠ってしまった侍を見て、子供たちは笑ってしまう。
侍が怒ってはたいへんなので、母親はたしなめる。
しばらくして、一人の子どもが飴をねだる。飴だまは一つしかないので、向こうへ着いたら買ってやると言い聞かせるけれど、子どもたちは大きな声でだだをこねはじめる。
侍がぱっちり目をあけるのを見て、驚いた母親が必至でなだめても、子供たちは言うことをきかない。
侍は刀をぬいて親子の前に立つ。
切り殺されると思い、子供たちをかばう母親に、「飴だまを出せ」という侍。
侍は、それを船のへりにのせて、刀で二つに割って、子供たちに分けてやり、元のところに戻って、何事もなかったように居眠りをはじめた。
+ + +
「ゲタニバケル」
たぬきの母親が、子どもに化け方を教えているのだが、子どもは失敗ばかりで上達せず、母親はがっかり。ところ
が、どういうわけか、ゲタにだけは上手に化けることができた。
ある日、子どもがゲタに化けて転がっていると、ゲタの緒を切って困っていた侍が通りかかって、そのゲタを履いてしまった。
子どもは、今にもつぶれそうになり、あまりの苦しさにうめき声を出し、痛さのあまり、しっぽまで飛びだした。こらえきれず、泣き出した子どもを履いたまま、侍はずんずん歩いていく。
心配で、木のかげに隠れながら追いかける母親。
侍は村のゲタ屋で、新しいゲタを買うと、「ごくろうだった」と、子どもが化けたゲタを外に出し、おだちんをやるのだった。
子どもは、うれしくてうれしくて、苦しかったことも忘れて、よろこびいさんで帰っていった。
* * *
新美南吉はすごい。
この二作を読んだだけで、『てぶくろを買いに』で逡巡していた気持ちが、たちまち、満たされたものになった。
どちらも、本当に短い話で、よけいなことは何も書かれていないのに、たちまち引き込まれた。
きちんと情景が浮かび、五感のすべてのセンサーがフル回転しているのがわかった。
子どもたちの心に入り、母親の心に入り、全体を俯瞰し、また、心の中に入る。
母親になり、子どもになり、侍になり、怖い思いをし、心配をし、はらはらおろおろし、苦しさにうめき、嬉々として、マラソンの並走をしているみたいに、物語のスタートからゴールまで、舞台と登場人物の心のなかを自由に行き来し、最高のカタルシスを得た。
絵の描けないわたしだって、絵本の挿絵を描きたいと思うほどに。
* * *
『きみのトモダチ』を書いたときのテーマは「童話」だった。
「童話」とはなんだろう?
子どもでもわかるストーリー。
それは、
・明確な文章(平易で、簡潔で、意味が明快)
・明確なキャラクター
・明確なストーリー(力強いストーリー・牽引力をもってるストーリー)
だと、水城ゆうさんは教えてくれた。
「それで次は? 次はどうなるの?」
と、ぐいぐい引っ張っていく力。
簡単な言葉なのに、きちんと情景が浮かび、つづきが気になり、次へ次へとページをめくりたくなる力。
難しい言葉や、技巧や、装飾だらけの長い文章が、失わせているものが見えた気がした。
大きなカタルシスは、
長い文章の果てに来るのではなく、数百字の物語で得られるということと、書かれている文章を越える世界を、読み手の心に映し出す表現があるのだということを実感した。
新美南吉で。
* * *
雪の街・自動販売機の灯・かさこじぞう・てぶくろを買いに・新美南吉・童話
欲しいと思ったものは、引き寄せられる。
『きみのトモダチ』をリライトしようと宣言したから、必要なものが寄せてきてくれた。
遠い稚内の街から。
これが、今年の誕生日プレゼントだ。
読んだら、絵をつけたくなるような物語を書きたい。
浜田えみな

