「知っていること」と「わかること」は違う。
「わかること」と、「使えること」は、違う。
イメージする力は、
「わかること」を、「使えること」に、近づける。
イメージすることができたら、その技法は二度と忘れない。
* * *
今日は、一月から購読している有料メールマガジンについてのエッセイです。
メールマガジンの詳細は文末でご紹介します。お楽しみに(^^)
ブログ中 【 】 でくくられている言葉は、メールマガジンからのものです。
* * *
メールマガジンのタイトルを見ただけでスイッチが入った。
一月から「有料」のメールマガジンを購読している。『ピスタチオ』のシンクロニシティを運んできたメールマガジンだ。第三号が届いた。今回のタイトルは
【「僕の言葉の工房を公開する」】
(言葉の工房!)
なんて魅惑的な言葉なのだろう。
「工房」から喚起されるイメージが瞬時に広がっていく。見えない場所に光が差しこむように。
工房には、なんでもある。使いこまれた道具。素材。魂を映しこむような部品。
すでに何かだったもの。これから何かになるもの。
工房には職人がいる。
職人には師匠がいる。弟子がいる。仲間がいる。扉がある。
職人には「道」がある。
― 職人になりたい ―
そう願ったことを覚えている。
文章の修業を始めた二十年近く前も。
もう一度やってみようと思った一年前も。
二十年近く前は、『小説工房』という場で文章修業をしていて、作品が優秀作に選ばれると「職人」という肩書がもらえたからだ。
一年前は、「職人」と呼ばれるにふさわしい本質を自分の執筆姿勢に投じたかったからだ。
気まぐれに降りてくるペガサスを待つように物語を書くのではなく、毎日、坦々と、ゆるぎない信念で書きたかった。
それを創る自分の手を知り、工程を知り、できあがる作品を知る。
自分の手を信じ、工程を信じ、できあがる作品を信じたかった。
二十年近く成長がなかったのは、「職人」のイメージを明確に持ちながらも、その工房のようすを具体的に想像できなかったからだ。
だから、「仕事」ができなかった。「作業」に入れなかった。道具も工房もなかったからだ。
カンナくず一つだって魂だと思える「場」を、自分の中に構えられなかったからだ。
今回のメールマガジンは、「職人」ではなく、「工房」をイメージさせてくれた。
「浜田工房」
今日、わたしは工房を構えた。
もう、すみずみまでイメージすることができる。文章工房という「場」を。
* * *
【仕掛品(しかかりひん))】
なんて、ファンタスティックな言葉なのだろう。
工房のあちこちで、手を入れられるのを待っている仕掛品。
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つい先日、作家のエッセイを読んだ。
連載をしながら、単発のインタビューや短編の執筆、取材をこなし、来年刊行予定の書き下ろしをやっていることが書かれていた。
(そんな同時進行、できない……)
と思ったけれど。
定期的に製品を出荷するためには、あらゆる種類と段階の仕掛品のラインが、潤滑に稼働していなければならない。当然だ。会社の仕事を思い描けば、誰でも普通にやっている。
大きな仕事、小さな仕事、主担の仕事、副担の仕事、ルーティーンの仕事、突発的な仕事、急ぐ仕事、そうでもない仕事、そんな、さまざまこもごもを、操りながら進めている。
そのシステムを、導入すればいいのだ。
メールマガジンの執筆者は、そのことを伝えてくれた。
【弓道でも次の矢はつねに控えに持っている】
(なんて、気持ちがひきしまる言葉なのだろう)
現在の技量では、二本の小説のラインを同時進行させるのはハードルが高すぎるけれど(一本でも、はかばかしくないのに)、小説とエッセイとか、ルポルタージュのラインなら持てると思う。むしろ必要なくらいだ。
そういえば、昨年の十二月に開催されたグループ展で、出品作品に取りかかっているとき、それを客観的に記録したメイキングを同時に書いた。工作としてカルタも作った。文章をねかせている間に、切り紙をした。のりが乾くのを待つあいだに、フレームを造った。
楽しかった。
そうとは意識しないまま、工房化に向けて、意識が動いていたのかもしれない。
タンスの上や床の上には、半完成品が所せましと置かれていた。パソコンのディスプレイには、ウィンドウが幾つもひらいていた。
* * *
まちがって伝わると困るので書いておく。
このメールマガジンは、文章を書きたい人のためのものではない(と思う)。
第三号の主題も、《職人の工房の在り方について》では、もちろんない(と思う)。
本旨は、きちんと別にある。
わたしが書いていることは、メールマガジンの主題とは別の、そこから派生した、勝手で独自でシアワセな思いこみの話だ。
執筆者がサービスで増やしてくれた枝葉を、勝手につまんで挿し木をしたら、花が咲きました! という感じ。
もしくは、執筆者の意図と離れたところで、(わたしの中では)「ある触媒」として反応が進んで、結晶化したという感じ。
つまり。
読む人の置かれた立場やとりまく環境によって、メールマガジンに組みこまれた仕掛けは、さまざまな変化と反応をもたらすだろうし、別の日に読みかえせば、また違う気づきがあるだろう。
執筆者の意図がどうであれ、受けとり手の心にできあがった成果物は、もう止められないのだ。
何が書かれてあっても、わたしは、自分の駆動力にできるものを、駆動力にできるように、変換する。直感のままに!
これは、特技なのだろうか? ……ほかの人は、どうなのだかわからない。
というわけで、「これは浜田の妄想です」と、おことわりした上で、つづきに入る(笑)
まだまだ、浜田工房を豊かにしてくれたアイテムが満載だ。
* * *
メールマガジンに書かれた本旨の一つとして、(あくまで個人的に)読みとった問いかけは、
自分の意識層(無意識層も含めて)の中に、過去のさまざまな経験や学習から圧縮された応用可能なプロセスを多岐に持つことにより、降りかかるあらゆる刺激に対して、常に照会検索をはかりながら、瞬時に「イエス・ノー」を判断するというシステムが、全身の感覚に組みこまれ、なおかつ稼働しているかどうか?
ということだと思った。
つまり、システムが瞬時(直感と呼ぶに近いほど)に、判断できればできるほど、《疑義なく迷いなく結論が出た》ということなので、その感覚は「正解」 ― からだの細胞すべてが、一瞬でOKサインを出したことだから ― というわけだ。
それなのに、多くの人は、自分がこれまで培ってきたシステム(生きた細胞)が導きだすシグナル―【直感】を信じず、わざわざ、自分にとっては(死んだ細胞)であるまわりの意見や状況などと、照会・検索を行い、全細胞が発信するシグナルに「ノー」サインを出しては、翻弄され、疲弊している。― ということだ。
(なるほどなあ……)
そして、執筆者は、意識の下の層のことを【半意識】及び【引き出し】、それを活用することを【糠漬けの原理】と表現している。
ここに、いろいろな素材を入れておくと、いい塩梅に発酵しておいしくなるというのだ。
(素晴らしい)
* * *
そういう「ぬか床」なら、わたしも持っている。
ものかきなら、たいていの人が持っていると思う。「ねかせ箱」みたいなものだ。
しょっちゅう、何かが入っている。
完成した原稿を入れて、翌日以降、クリアな頭で読み直したり。
伝えたいのだけど、どうしてもまとまらないテーマを入れておいたり。
なんでもかんでも入っている。ぬか床に、野菜の切れ端を放りこむように。
そういえば……
この「ぬか床」に入れてあることは、いつまでも覚えている!
頃合いに引き上げて、書ききってしまったものは、全く抜けおちていて思いだせもしないのに。
不思議な「ぬか床」
そうか。「問い」はここに入っているのだ。
「欲しいもの」も。「願い」も。「祈り」も。「種」も。
シンクロニシティは、この「ぬか床」が、引きよせているのだ。
(恐るべし)
そういえば、ぬか床が登場する小説があった。先祖伝来のぬか床だ。
梨木香歩さんの『沼地のある森をぬけて』という小説だったと思う。
もうずいぶん前に読んだので、詳細が思いだせないのだけれど、このぬか床からは、なにやら、いろいろなものが生まれてきたような気がする。どういうふうに終決したのだろう。今読めば、何か自分へのメッセージがあるのだろうか。必要な何かが。
メールマガジンの第二号は、梨木香歩さんの『ピスタチオ』を引き寄せた。→ ブログ記事 「ピスタチオ」
どうやら、このメールマガジンは、わたしに梨木香歩さんを引き合わせようとしているようだ。
(なぜ?)
梨木香歩さん。
児童文学を書かれていた(と思う)初期のころの作品は読んでいたけれど、だんだん、書かれていることが、難解に思え、わたしには遠い話になり、手に取らなくなってしまった。
今、「ふたたび、梨木香歩」だと、「ぬか床」がサインを送っているのだとしたら。
* * *
「ぬか床」と言えば。
ココロもまた、ぬか床のようだと思ったことがあった。 → ブログ記事 「最強のぬか床」
ハートエイクな出来事は、だれでも、いつでも、どこでも、起こる。ぐっさり、えぐられ、ばっさり、斬られ、ざっくり、傷つく。
「釘みたいだ」
と思った瞬間、その傷が、ぬか床に入れる古釘みたいなものだと気づいた。
まったく異質で、鋭利なのに、共存するものの質をあげる。それがあるから、なすびが変色せず、色あざやかになる。
釘みたいな言葉は、心の中で豊穣な熟成をうながし、相乗効果をもたらす。生みだされる言葉は、色めき、艶めき、深い味わいをもつにちがいない。心に刺さる釘の数ほど、最強のぬか床に育っていくのだと。
そう思ってから、どうにもこうにも、えぐられるようなトゲを感じても、大丈夫になった。
ふかふかのぬか床に、さしこまれる最大級の古釘。
これまで食べたことのないような、色鮮やかでおいしいなすびが、ひきあげられ、たきたてのごはんと共に食されるようすを思う。味わい深い漬物を、しみじみかみしめる味わいを思う。
(ああ、また心の「ぬか床」が豊かになっていく)
(こんなに、ぐっさりきたのだから、きっと最強のぬか漬けができあがる)
と、思うことにしている(笑) 傷ついても、へいちゃらだ。(それはうそ)
* * *
イメージする力。
「知っていること」と「わかること」は違う。
「わかること」と、「使えること」は、違う。
イメージする力は、「わかること」を、「使えること」に、近づけることだ。
イメージすることができたら、その定理は二度と忘れない。
* * *
第三号を読み進んでいて、「自由になる」という表現を幾度も目にして、
(ああ、そういえば)
このメールマガジンは、「自由になるため」というテーマで創刊したものだったことを思いだした。
(自由って、どういうことなのだろう?)
抽象的… 象徴的? すぎて、具体的な状況がイメージできない。
ふと見ると、第三号を締める最後の言葉は、
― 【……することができれば、心は自由に向かい始める】 ― となっていた。
(え)
ということは、この号には、「心が自由に向かい始める」ために必要なことが、書かれてあったということだ。
(あらら)
枝葉の単語にばかり感応していました。「工房」とか「ぬか床」とか(笑)
(……)
注意して読みかえすと、【多様な選択を可能にしていくこと】が、自由になることだと書かれていた。
(わたしにとっての「自由」とは?)
「書ける」ということだろうか? 制限なく。
文章表現のための【選択肢】が増えることだろうか? 限りなく。
作業領域が広がることだろうか? 自分の中にも? 外にも? 果てしなく。
* * *
今、直感がささやいたので、書いてみる。
わたしが、今、「自由になる」ということ、それは
無意識のブレーキに気づくこと!
「ぬか床」がささやくのだ。
アクセルを踏んでも踏んでも、進まないのは、無意識のブレーキが強すぎるからだと。
(……)
(わたしのブレーキは、なんだろう?)
この問いを、再び「ぬか床」へ、差しもどす(笑) きっと、答えを引きよせてくれるはず。
なんといっても、「最強」だから。
ともあれ。
「浜田工房」を構えることができて、とても嬉しい。いや、「浜田“ぬか床”工房」だ。
さっそく、工房内に、「仕掛品」をバラまいた。
「ぬか床」には、素材を差しこんだ。問いも仕込んだ。
何が訪れるだろう? メールマガジンは、まだまだ続く。
おりしも、旧正月。
新しい年のはじまりだ。
浜田えみな(H23.1.23)
◆◆◆ お待たせしました! メールマガジンについて ◆◆◆
第二号にして、図書館の本を消滅・出現させ、第三号にして、「浜田“ぬか床”工房」を構えさせ、今後も、さまざまなメッセージを運んでくるに違いない、この不思議なメールマガジンのタイトルは
「GOLD2012」
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このメールマガジンは、会員制の「銀河の家」という多目的掲示板とで構成されるネットワークコンテンツとなっていて、配信された内容についての質問や意見を書きこめる、連動コミュニティサイトとして機能しています。まだ始まったばかりです。
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さあ、あなたには、どんなミラクルが?(^^)
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