青空のゆくえ

どんな状況の中でも、人は笑みをこぼす
どんな状況のなかでも、楽しみの灯はともる


どんな時代にも、どんな場所でも、どんな状況でも、
人が生きていけるのは、それがあるからだと、


信じて安らぐことができる灯を、
たしかに自分の心に、ともしたかったのだと思う


*    *    *


先日、五語展を一緒にやった木村二段さんへのラブレターを書きながら、「文字のもつ力」について、考えていた。


「文字力100」(林哲夫著)という本がある。


書籍の紹介記事によると、冒頭の文章で


絵や写真は人に対して具体的な何かを与えるが、文字は人の中からイメージを引きだす、そういうことではないだろうか。それが文字力である。


と書かれているらしい。


(なるほどなあ)
と思う。


「文字力」という検索キーでヒットしたURLを、次々にクリックしていくと、


(おおお!)
というブログに出会った。


記事も写真も洗練されていた。
リンク先の欄に、ひとつひとつ説明がついていた。
その人が自分にとってどういう人なのか。なぜ、そのブログが好きなのか……。
どれも、その人が大切にしている人たちであり、大切なサイトなのだとわかった。


(ああ、こんなふうにすればいいんだ)
と思った。


ただリンク先のタイトルを示すだけでなく、こんな演出も可能なのだ。
紹介のコメントを読むたびに、心に花が咲いていくようだった。

リンクされていたなかで、「風の旅人」というネーミングと、「写真論」という言葉が気になり、そのサイトへ飛んでみた。 

そこで、「裏日本」という言葉に遭遇し、濱谷弘という写真家を知った。 → 『風の旅人 44号』 紹介記事


「裏日本」という響きの持つインパクトに、画面をたたむことできなくなり、モノクロの写真の持つインパクトに動けなくなった。


画像では小さすぎて読めない、写真の横に添えられている濱谷氏の解説文が、どうしても読みたかった。
調べたけれど、一九五七年刊行の写真集を手にするのは、なかなか困難だということがわかったので、とりいそぎ、「風の旅人 44号」を発注した。


裏日本というのは、日本列島の、本州の日本海側のことだ。


わたしは、この呼び方を知っているので、小学校の時は教科書に載っていたのだと思う。今は、差別的・侮蔑的であるとの理由から、メディアの場で使われることはないという。


『裏日本』の巻頭に添えられた言葉は、


「人間が 人間を 理解するために 日本人が 日本人を 理解するために」


『風の旅人 44号』の紹介で掲載された写真で、わたしが魅かれたのは、湯治場の升のような四角い風呂に、老若男女の別なく、ぎっしりとすきまなく肌を合わせて体を癒している人の表情とその光景だった。


その後、インターネットで調べるうちに、裏日本の農業従事者のおかれた環境は、笑顔の湯治などという、そんな生易しいものではないとわかった。

じっさいに『風の旅人』を取り寄せ、『裏日本』に収録された写真や、濱谷弘氏の解説文を見ていると、なんだか、今の私たちが、とても甘えすぎているようで、やりきれない気持ちになった。


「アワラの田植え」という写真は、ウェブページで見られる泥だらけの写真のほかに、底なし沼のような水田に胸までつかって、底に沈めた丸太を足掛かりに田植えをする女性の姿を写したものもあり、こんなにまでして米を作らなければ食べるものがないという状況や、その地名を聞くと、娘は嫁に行きたがらないと言われる土地で、生涯を終える人たちのことを思い、さらに当時の調査報告では、

「東北地方の農民は、普通より十年早く老いこみ、男は五十五、女は四十五で、一人前の働きができなくなる」

という解説文を目にすると、それは、たかだか七十年ほど前の日本のことなのに……と思った。


農業に限らず、漁業でも、炭鉱でも、製糸工場でも、いたるところで、日本人は、食べるために働きづめに働いていた。


*    *    *


自分が書こうとしているものや書いているものに対する無力感。


*    *    *


青空のゆくえ



青空のゆくえ

今はもう廃屋になって久しい父の生家と、その間取り図(以前、父に書いてもらった)。


わたしが小学生のときは、毎年帰省していた。
父は、子どものころに母を亡くしている。


叔母は、母親とごはんを食べたことがないと言っていた。

子どもたちのごはんを用意し、まだ、家族が寝ているうちから、夜明けとともに、家の裏手にある田畑へ作業に出かけ、日が落ちて、真っ暗になるまで働き、明かりもない山の道を、はいつくばるようにして降りてきて、一人で、ごはんを食べ、遅くまで繕いものなどをして、ずっと働いていたという。


叔母は、母親が横になっている姿を見たことがないと言っていた。父は十一人きょうだいの九番目だが、一番下の弟が二歳のときに、働きづめの母親は過労で倒れて、亡くなったのだという。


「女は四十五歳で一人前の働きができなくなる」
という濱谷氏の文章がオーバーラップする。


*    *    *


どこで生まれるか。
どのように生まれるか。
その土地から離れられない人もいる。その土地にとどまりたくても、離れるしかない人もいる。


父は、長男ではなかったから、生まれ育った土地を離れ、大阪に出てきた。
だから、わたしは大阪で生まれ育った。
産業にも文化にも恵まれて。


生まれたわけがあるのだろう。その土地に生まれた使命があるのだろう。


*    *    *


衝撃的な「アワラの田植え」は、写真のみならず、画像で見ることができた。
昭和五十年代のニュースだ。四番目がアワラの田植えシーン。→ 日本ニュース(昭和十六年六月)


もちろん、そんなことはないのだけど、映像では、なぜか過酷さよりも、楽しんでいるかのような雰囲気が伝わってくる。


『風の旅人』で、最初に目をとめた写真が、湯治場の笑顔だったように、どんな状況の中でも、人は笑みをこぼす。どんな状況のなかでも、楽しみの灯はともる。


わたしが、本当に見たかったのは、そんな片鱗。


どんな時代にも、どんな場所でも、どんな状況でも、人が生きていけるのは、それがあるからだと、信じて安らぐことができる灯を、たしかに自分の心に、ともしたかったのだと思う。

そして、思うのだ。
今、わたしたちが置かれている状況を。


*    *    *


昨日、PTA役員の実行委員会での校長挨拶が心に残った。


終業式には、子どもたちが「あゆみ」(成績表)を持ち帰るが、まずはほめてやってほしいと。
子どもたちは、お母さんが想うよりも、学校という場のなかで張りつめてすごしていると。


朝、登校して、忘れ物をしていないか、何か失敗をしないか、休み時間は誰と遊ぼうか、ひとりぼっちにならないか、だれかを傷つけたりしないか、だれかに傷つけられないか、給食はぜんぶ食べられるか、終わりの会で何か指摘されないか。下校時には、みんなの習い事の日程を思い描き、今日は誰と一緒に帰ればいいのか。帰宅後は、だれと遊ぶか。誘ってもらえるか。おかあさんに叱られないか。宿題はぜんぶできるか。


そんな日々を、ずっと送ってきて、二学期をやりおおせた、そのことを、まずは、ほめてあげてくださいと。


(ほんとうだなあ)
と思った。


アワラの田植えの写真が思いうかんできた。


都市で生きる現代のわたしたちは、胸まで冷たい泥土にまみれて、過酷な田植えをすることはない。
だけど、それにも匹敵するような辛辣な仕打ちに傷ついたり、打ちのめされたりして、日々を送っていると言えないだろうか?


天候より、地形より、もっと起伏と激しさと厳しさに荒れて吹きすさぶ、人の心の表と裏……
のどもとまで、息のできない底なし沼にひきずりこまれそうな日々……


*    *    *


だいじょうぶ。
どんなときだって、笑顔が人を支えてきた。


それだけは確かなことだ。
その灯を、絶やさず、つないでいこう。


浜田えみな