軸があるからブレることができる
どんなにブレても、どんなに揺れても、
自分のなかにあるゼロの場所
嵐が吹き荒れても、凪のような原点
自分の原点に戻りつづける法則
* * *
表現する題材があれば、幸せを感じる。
景色でも、ことばでも、表情でも。味わいでも。
感情でも、思考でも、行動でも、情熱でも。
こんな気持ちにさせた「何か」とは?
急に何だったのかを知りたくなり、わざわざ過去のブログ記事を検索して全文を読みにいったら、最初から最後まで、スターバックスコーヒーのことしか書いていなかった。
たしかに、この文章を見出しにしたブログ記事のタイトルは、「スターバックス」というのだが、
(なんでスタバ?)
しかも、文中で、“スタバに行こう”と高らかに宣言したあとに、とつぜん、くだんの文章は挿入されていて、まったく意味不明。
さらに次の段落では、いきなり場面が海辺になり、なんと波のまたたきを数えているのだ(!)
(なんなんだ?)
自分で書いた文章なのに、何がいいたいのか、さっぱりわからず、三回読み直して、やっと、
「スターバックスの数多くのコーヒーを飲み比べて、それが、どんな味わいなのかを、自分の五感のすべてを駆使して表現することに挑戦したいこと」が主題だと、わかった。
突然、海が出てきたのは、どうやらスタバのロゴが「セイレーン」という人魚姫だと知ったからのようだ。
「“事実なのか、小説なのか、途中で読み返さないとわからなくなる”から、読むのがイヤだ」
と、夫には前々から言われている。
(それが私の文章世界なのだから、ほっといて)
と、耳をかさずにきたけれど、たしかにわからない(苦笑) ついてゆかれない。疲れている時は特にだ。
でも、そこがいいと言ってくれる人も、少数ながらいたりもするから(言い訳)、スタバから海へ自然にワープできるかどうか、試してみたい人は ⇒ 「スターバックス」
* * *
前ふりが長くなった。
今日書こうと思っているのは、スタバの話ではなく、「書きたい題材への欲求」の話だ。
* * *
ゼロアーティスト養成講座を受講しようと思ったとき、
「のどから手が出るほど」(…ものかきを目指しているといいながら、こんな陳腐な表現をするのはどうかと思うけれど)、吉井さんにお願いしてみたかったことがあった。それは
“ゼロアーティスト養成講座を受講するアーティストたちの卒業までの軌跡を、書かせてもらいたい”
ということだった。
ゼロの講座は、人を大きく変えると思った。
その過程に、自分も受講生の立場で、ずっと立ち会えるなんて、まさに密着ルポ!
こんなにリアルでライブな機会は二度とない。ぜったいない。逃していいのか?
書きたい!
なぜ、作品を創るのだろう? 何を創りたいのだろう? 何を伝えたいのだろう? 何を求めて、講座を受けようと思ったのだろう?
受講前、受講中、受講後、どう変わっていくのだろう?
そのときだけのとまどい、悩み、迷い、叫び。
本人の気づかない変化、成長、ギフト、ミラクル。
師のまなざし。仲間のまなざし。
素晴らしいアーティストの誕生にかかわり、入りこみ、二度とない過渡期を書きのこしたい。
ものかきとしてなら、わたしは「ひと」が大好きで、「ひと」とふれ、「ひと」を知り、「ひと」と接し、「ひと」を旅することが嬉しい。
でも、わたしは、吉井さんには一度しか会ったことがなく、受講生はだれひとり知らず、企画書も作ったことがなかった。
書くためには、講座以外に時間をとって話を聞かせてもらわなければならないし、メールでのやりとりや、その人を知るための時間も必要に思えた。だけど、出来上がりは漠然としていたから、どの時期にどのくらい時間をとって、どういうインタビューをしておけばいいのかもわからない。四人分は無理なので、だれか一人にお願いするわけだけど、実績があるならともかく、初対面のわたしに任せてくれる人がいるとは思えなかったし、依頼されたのならともかく、書いてないときのわたしは、ひとみしりで、ひくつで、ひきこもりだから(笑)、すべてをクリアして、資料をそろえてお願いするなんて、ハードルが高すぎた。とても言いだせなかった。
それでも、途中から頼める状況が訪れるかもしれないから、初回の講座では、みんなの発言内容を細かくメモをとって記録していたけれど、受講生とライターの両立は無理だと、すぐにわかった。
自分のことでさえ、「ブログ宣言」と、「講座の余白」しか書けなかったのだ。カバーしきれない想いが山のようにあるのに!
だから。
そのときしか書けないこと。そのときしか感じられないこと。そのときだけの想い。自分では話したことも忘れてしまっているような「旬」のあれこれを、だれかが記録していてくれて、そのひとのまなざしで結晶化してくれて、ふいにプレゼントしてくれたとしたら、どんなに嬉しかっただろうと思う。
ころころの生まれたての卵みたいに、みんなで席について、吉井さんの講座を聞き、ワークに取りくんだ日々。やがて、それぞれ幼虫になり、まいにち葉っぱをもぐもぐ食べ、悩んだり、迷ったりして脱皮をくりかえし、さなぎになって、別人のように羽化して、羽ばたこうとしている。
すでに美しい羽をもつアーティストたちは、もう、さなぎにも幼虫にも卵にも戻れない。
ああ、やっぱり、決定的瞬間を、書き損ねたなと思う。
卵の気持ち。幼虫の気持ち。脱皮するときの気持ち。さなぎの気持ち。羽化する瞬間の気持ち。
そのときだけの、その瞬間だけの、かけがえのない気持ち。
では、自分のことは記録できたのか? と、「ブログ宣言」以下、読みかえしてみたけれど、あまりに長すぎて、どうにもこうにも(苦笑)
おそるべし分量だった。しかも、全編“スタバ状態”(!)
* * *
白駒妃登美さんが、講演会で、
「今まで、“大切”という字に、なぜ“切る”という字が使われているのか不思議でしかたがなかったけれど、本の編集過程で、“大きく切るから、大切なことがわかる”んだと、理解できたんです!」
と、瞳をキラキラさせながら話されていた。
大きく切られたのは、ひすいこたろうさんと共著された本の原稿だ(笑)
あれもこれも書きたい思いがあふれてやまない妃登美さんの元原稿を、ひすいさんは、愛情たっぷりのカットで、ばっさばっさと切っていったのだという。
その結果、残ったものが際立ち、通して読んだときに、ぐっと胸に迫るものになったそうだ。
大きく切るから“大切”
とっても、そんな気力はないけれど、いつか余力があれば、編集作業を。
七か月間のゼロの記録。
* * *
あいかわらず、振り子のように揺れている。
でも、軸があるからブレることができるのだとわかった。
どんなにブレても、どんなに揺れても、たとえ一瞬で通り過ぎたとしても、自分のなかにあるゼロの場所。どんな嵐が吹き荒れても、凪のような原点。
それを知るための七か月。
ゼロの場所があるから、どこへでも行けるのだ。
どんなに遠く離れても、自分の原点に戻りつづける法則を、余白に書きこみ、テキストを閉じる。
ありがとうございました。
吉井さま 記念すべき大阪第一期生のみなさま
浜田えみな