まっさらの鍵盤がある
まだ、押されたことのないキーが ずらりと並んでいる
絵本は楽譜
絵本を読むって、弾いてみることだ
おぼつかない指でも、ちゃんと鳴る
まだ押されたことのないキーを響かせ、
ゆっくりでも楽曲を奏でる
いっぽんのゆびから
絵本を読むって、そんな喜びだ
* * *
作家の名前は記憶していなかったので、『くまのアーネストおじさん』シリーズの、みずみずしく豊かな水彩の原画展示につづいて、『アンジュール』の原画が出てきたときは、本当にびっくりした。
(この人だったのか)
と思った。
ガブリエル・バンサン。
「絵本は私の作家活動のほんの一部のことです」
という、ガブリエル・バンサンの、アーネストおじさんのシリーズは、書店や図書館で見かけたとしても、絶対に読まなかったと思う。なぜなら、表紙を見ただけでは、気のいいクマと、こましゃくれたネズミの女の子の、《愉快な森の生活……それ以上でも以下でもない……》 という印象しか持たないだろうから。今の自分に必要なメッセージがあるなんて、思いもしない。
シリーズは二十冊ほど(!)もあるため、このたびの絵本作家展では、代表的な作品から、数枚ずつ選ばれた原画だけが展示されていた。文字がないので、その場面で、どんなセリフが交わされているのかは、わからない。どんなふうに物語がつながっているのかも、わからない。
展示されていない場面を見たいと思った。物語を追いたいと思った。
アーネストと一緒に。セレスティーヌと一緒に。
全部読みたいと思ったのは、展示にあたって、作品に添えられた学芸員さんのコメントがあまりにも魅力的だったからだ。
図書館に行ったら探してみようと心に決めたら、館内の中ほどに、ミニ図書コーナーが設置してあった!
展示作家のほとんどの絵本が並んでいた。夏休みなので、子どもが多く、お母さんと一緒に読んでいる。その片隅に、すべりこませてもらった。
* * *
一冊手にとり、心を打たれ、もう一度最初から読み、次の一冊を、また二回読み… というふうにして、気がついたら、置いてあった十数冊のシリーズすべてを二度、三度と読みかえしていた。
読まずには帰れなかった。時間が許すなら、もっと深く読みこみたかった。文章をすべて、書き写したかった。
(これは、なんなんだろう?)
(大人の絵本だな)
そう思った。
アーネストとセレスティーヌは、くまとねずみだったけれど、森の中の穴に住んでいるのではなくて、町の中に住んでいた。お店屋さんに買い物に行ったり、美術館に職探しに行ったりする。
登場人物は、ほとんどが擬人化されたクマなのだけど、子どもたちは、なぜかネズミなのだ。クマの子どもはいない。それならば人間は登場しないのかと思ったら、ちゃんと登場して、言葉もかわすし、交友もある。
アーネストは、朴訥でやさしくて、まじめで、セレスティーヌが望むデリカシーには少し欠けてて、反応がおそく、空気がよめなくて、じれったくて、鈍感。
だけど、ひとたび腰をあげたら、ターボエンジン噴射で、フットワークが軽くて、器用で、セーブすることを知らず、とんでもない発想力で、セレスティーヌを一瞬にして幸福にする。芸術を愛し、情感篤く、涙もろくて、感激屋。自分のしあわせと、他人のしあわせを、分けたりしない。
巻末に、日本語訳をされた森 比左志さんの後記が載っていて、その言葉が心地よくて、何回も読んだ。
お話を創ったのはガブリエル・バンサンだが、物語の風合いを創ったのは、訳した森 比左志さんだ。
森さんが大切に思っている世界が、忠実に再現されている。文体で。リズムで。語感で。口調で。
たくさんの一人称のなかで、どれを選ぶのか。
アーネストは、「ぼく」っていうのか、「おれ」っていうのか、「わし」っていうのか。
セレスティーヌは、「わたし」っていうのか、「あたし」っていうのか、「あたい」っていうのか。
ひらがなにするのか、カタカナにするのか。「ボク」「オレ」「ワシ」「ワタシ」「アタシ」「アタイ」
それだけでも、ぜんぜん、かわってくる。
二人称もたくさんある。きみっていうのか、あなたっていうのか、おまえっていうのか。
名前を呼ぶのか。名前は、どんなふうに呼びあっているのか。呼びすてにするのか。愛称で呼ぶのか。ちゃん付けにするのか、さん付けにするのか。
語尾はどんなふうなのか。
文体によって、声色まで変わる気がする。わたしたちが心に創りだすアーネストとセレスティーヌは、森さんによって、提供されたものが大きい。
原文を日本のことばに置きかえるとき、「質」や「奥行」や「温度」や「空気感」ができていくのだと思う。
あたたかさ。やさしさ。よろこび。かなしみ。さびしさ。せつなさ。いとおしさ。におい。はだざわり。
ものがたりを読むとき、わたしたちは、包まれている。
森さんの人間力がまぜあわされて、届けられている世界。
巻末の文章は、ずっと見守っている慈愛がみちあふれていて、うんうんと、再確認する場面もあるし、思い至らなくて、あわててページをめくって確認する場面もある。
アーネストとセレスティーヌが住む町に、実は森さんは自在にワープできるんじゃないかと思う。日本でいちばん、彼らを愛していることがわかる。そんなまなざしを感じて、ますます二人が好きになる。
* * *
気がつくと、目の前にいた小さな子たちは いなくなっていて、児童文学か幼児教育を専攻しているような三人の女子が、私と同じように『アーネストおじさん』シリーズを、制覇しているところだった。
「あ、“セレスティーヌ”! 出会いが書いてある本や!」
「なんで、セレスティーヌは、こんなにワガママなのに、許されているの?」
「その秘密がこの本のなかに!」
アーネストおじさんシリーズは水彩画の絵本だが、『セレスティーヌ』は、『アンジュール』と似た作風のデッサン絵本だ。表紙には、赤ちゃんのセレスティーヌが描かれている。
なぜ、くまのアーネストと、ねずみのセレスティーヌが一緒に暮らすようになったのか。
なぜ、セレスティーヌは、あんなに、わがまま放題好き勝手なのに、アーネストは、怒りもせず、すべてを受けいれ、包みこみ、尽くすのか。
彼女たちだけでなく、私だって知りたい!
セレスティーヌは一七〇ページの分厚い本だ。そのなかには、どんな世界がひらけているのだろう。
それぞれ、感動する場面や心に残る言葉は、違うだろうに、彼女たちは三人で一冊の絵本を読んでいる。くちぐちに感想を言い合いながら。
途中から黙って読んでいた彼女たちが、本をとじて、ほっと吐いたコトバは
「アーネストは、しつけをまちがえたね」
「しつけに失敗したね」
どうやら、本の中では、セレスティーヌがわがまま放題に育った原因は描かれていなかったようだ(笑)
彼女たちが棚に戻した『セレスティーヌ』を、私も手にとる。
一冊の本のなかに、いろいろな人の面影を見ることができた。
アーネストは私だったし、夫だったし、父だった。セレスティーヌは、リクトだったし、コツメだったし、私だった。
誰だって、アーネストのように、壊れそうに小さくて、息をしてそばにいてくれるだけでいい存在を、胸のなかに、ぎゅっと抱きしめたい。
誰だって、セレスティーヌのように、愛され、気にかけられ、心配され、見守られ、あたたかい腕のなかで、ただ、安心したい。
ガブリエル・バンサンのデッサンがすごいのは、たとえ、その一部だけを切りとったとしても、圧倒的なゆるぎなさで、心情を伝えてくるところだ。
驚いているアーネストは、目の表情や、鼻さきの角度、口のあけかたといった特徴的な部分だけでなく、ゆびのいっぽんいっぽん、せなかのライン、ひじのまげかた、洋服のシワ、白い画面につけられたセピアの濃淡、どの部分だけをとっても、「驚いて」いる。
セレスティーヌのいとおしさに、踊りだしそうなアーネスト、とろけそうなアーネスト、かたくななアーネスト、心配のあまり、狂わんばかりのアーネスト、一七〇枚のデッサンは、頭の先から指一本ずつのニュアンス、肩の丸みや、歩幅、ひざの角度、つま先の向きにまで、表情がみちあふれているのだ。
そんな絵を初めてみた。何度見ても、いつまで見ていても、アーネストの一挙一動は、読む人の心によりそい、やさしくほぐして、ゆりかごのように、ゆるめてくれる。
しつけに失敗するもなにも、アーネストは、小さすぎるセレスティーヌに、最初からメロメロなのだ。
* * *
このデッサン絵本と対をなすのが、くまのアーネストおじさんシリーズの『セレスティーヌのおいたち』だ。
ガブリエル・バンサンは、雑誌のインタビュー記事の中で、シリーズの絵本の中を一貫して流れるテーマについて、こう語っている。
「不幸を幸福に“変換”する。悲しいことでも、気持ちの持ちようや、ちょっとした工夫で、悲しいことだったはずのものが、楽しいことになってしまう」
セレスティーヌは、町の掃除婦をしていたアーネストが、雨の広場のごみバケツの中から拾いあげた。まだ目も開いていない、生後まもない赤んぼうだった。
「だれが、わたしを、その ごみバケツに おいたの、ねえ、アーネスト?」
「ぼくには、わからないよ、セレスティーヌ。その しつもんには こたえられないんだよ」
「アーネストは、そのときも こんなふうに だっこしてくれたの?」
「いちにちじゅう?」
「そう、いちにちじゅう」
自分がパパとママに、ひろばのごみバケツの中におかれた事実を知ると同時に、アーネストに守られ、たいせつにされて育った事実や、今もその大きな愛に包まれている事実を知り、いっそう深くよりそう、セレスティーヌとアーネストの二つの心。
もう大きくなったセレスティーヌが、同じように、アーネストに、前むきにだっこされ、横むきにだっこされ、高くだきあげられ、ほおずりされ、だきしめられ、赤ちゃん返りをする年長の子どもみたいに、小さいころの追体験をし、存分に甘えながら、ぬくもりを確かめているシーンの一つ一つに、自分のなかに芽生える熱いものを感じる。
超えるのだ。
誰から生まれてきたのかなんて。
棄てられたとしても。寒かったとしても。寂しかったとしても。求めつづけていたとしても。傷ついたとしても。ひとりぼっちだったとしても。
哀しみを過去にして、現在を未来への懸け橋にするもの。
必要だから、生まれてきたんだ。
すべてを超えるものがあるんだ。
自分の中の、母性や、幼児性が、融合していく。
二十冊あまりの絵本と、一冊のデッサンで。アーネストに。セレスティーヌに。
絵本が、癒しやセラピーだと言われる所以がよくわかった。
必要な絵本を差しだされただけで、不幸を幸福に変換できる人は、きっと多い。
そんなセラピーがあればいいのに。
アロマセラピストが、精油をブレンドするように。ハーバリストが、ハーブをブレンドするように。
「唯一無二の一冊」を見つけるのは、「縁」のようなものなのだと思う。図書館の絵本コーナーを、端から読んでいったとしても、得られない。誰かに選んでもらうものでもない。
訪れるから。
肩の力を抜いて、リラックスして、目の前のできごとに手を抜かず、日々を暮していれば、思いもしないプレゼントみたいに、手のなかに入ってくる。
* * *
ガブリエル・バンサンは、二〇〇〇年に亡くなっていて、『セレスティーヌのおいたち』は、「遺作となった」と書かれていた。
アーネストの朴訥さ、やさしさ。反応は遅いのに、腰があがると、夢中でのめりこむところ。気のいいところ。めげないところ。
セレスティーヌへそそぐ愛情を見ていると、過去のロマンスが気になる。
アーネストの恋愛は? なぜ、アーネストは独り身なの? 絵が好きなアーネストは、どんな夢をもつ若いクマだったの?
知りたいなあ。読みたいなあ。なんで、書かずに亡くなっちゃったんだ。
* * *
ガブリエル・バンサンや絵本のことを調べていたら、宝物のようなサイトを見つけた。
管理人のayaさんの文章は読むだけでも癒される。どんな人なのか、会いたくなる。声がききたくなる。
ayaさんだったら、この膨大な書棚の中から、その人の心のすきまを埋める一冊を、きっと差しだしてくれる……。 そう感じる。
リンクフリーだと書いてくださっているので、リンクします。
→ おすすめ絵本/いやしの本棚
ガブリエル・バンサンの絵本がきっかけで、絵本による癒しにふれ、世界中に、まだ読んだことのない素晴らしい絵本があふれていることを知った。
ayaさんの本棚にも、読みきれないほどの本が並んでいる。
(文章なんか、書いている場合じゃない)
駄文を捻出している時間があったら、
(図書館へ急げ!)
もっと読みたい。もっと観たい。もっと感じたい。
まっさらの鍵盤がある。まだ、押されたことのないキーがずらりと並んでいる。
絵本は楽譜。絵本を読むって、自分で弾いてみることだ。おぼつかない指でも、ちゃんと鳴る。
まだ押されたことのないキーを響かせ、ゆっくりでも楽曲を奏でる。
いっぽんのゆびから。
絵本を読むって、そんな喜びだ。
生まれてから、最初に好きになったのは、「読むこと」だ。
書くことじゃなかったな(笑)
浜田えみな
でも、自分で書くと、最初の読者になれる。
書いて読んで、二度おいしい。
人にも喜んでもらえて、何度でもおいしい。


