青空のゆくえ ← ゼロノート


自分がどんなことをイヤに思っていて、
どんなふうに寂しくて、
どんなふうに苦しくて、
どんなふうに耐えきれず、
どんなふうに泣いたのかを、
言葉にしようと決めたとき、
スイッチが切りかわるんだよと伝えたい。


*        *       *


愛の使者


癒されたいと思ったときから、癒される用意ができている。
たとえば、カウンセラーに。たとえばセラピストに。たとえばゼロアーティストに。
癒してほしい傷口をあけて、


ここをみて。ここにふれて。ここをなでて。ここをつつんで。


そう言えたなら。

その瞬間から、目の前にふってくるものすべて、飛びこんでくるものすべて、出会うものすべて、感じることすべてが、自分を救うために遣わされた使者だと、わかる。


自分がどんなことをイヤに思っていて、どんなふうに寂しくて、どんなふうに苦しくて、どんなふうに耐えきれず、どんなふうに泣いたのかを、言葉にしようと決めたとき、スイッチが切りかわるんだよと伝えたい。


何をしても、何を見ても、誰と会っても、


傷つけて。傷つけて。さあ、傷つけて。もっと傷つけて


と、わざと自分をむきだしにして、かばうことも避けることもせず、切りさいてもらうために、大きく胸をひらいて動けずにいるようなあなたの心に。


逃げることも止まることもせず、痛みで痛みを消すために、新しい傷を作りつづけて持ちこたえている、凍りつきそうな炎を映したあなたの瞳に。


ゼロの落とし穴


半年間、なんにもやってなかったのだな。
講座で、いくつものワークをやったけど、いつも自分のなかにつながる答が見えていて、ゼロの方程式は、ゴールから逆にたどる迷路のように、後づけだった。それでも、テキストに書いていることは理解できたし、方程式の意味もわかったから、自分では、使えるつもりでいた。多角的に物事を見ているつもりだった。


だけど、自分の決めたピントを決して動かすことなく、同じレンズで、同じズームで、平行移動していただけだった。方程式なんて、ちっとも使っていないことに、気づけなかった。
そんなことばかりしていたツケが、ドカンとやってくるまで。


他人を癒すゼロアート


言われるたびに悲しい気持ちになったり、イヤな気持ちになったり、どうしようもないモヤモヤ感に襲われたり、平気をよそおっても、笑顔がひきつって、平常心を保つのが難しいような、そんな言葉が、だれにでもある。
そんな「ブラックワード」を、「ラブワード」へ変換するアイテムを創ることが、最後の宿題だった。


(マッシロです)


四つのブラックワードは、私には、スルーできるものばかりで、その人の涙に、よりそう言葉は、手持ちのストックにはないし、入っている引きだしがあるのかどうかさえわからなかった。
本当の意味で、わたしは、初めて、ゼロの方程式を使ったのだと思う。

「無敵の法則」や「素敵の法則」という文字を見ても、それが、どんなものだったか、思いだせなかったから、あわててテキストをめくった。


ゼロティブって? ゼロアートって?


マッシロの自分に驚いて、テキストを最初からおさらいした。大事だと思われることを、もう一度書き抜いた。ノートを読み、「ブログ宣言」を読み、「余白」として書いたものを読んだ。

ゼロノートを用意した。

テキスト1から、順番に方程式をあてはめていくしかない。まったく手がかりのない、ゴールの見えないマップ。


きちんと、その時々にゼロの法則を修得していれば、どれを使えばいいのか、瞬時にわかるはずで、楽勝のはずで、じっくり表現方法を考えられるはず。
なのに、最初からすべての方程式を順番にあてはめていくことでしか、アプローチできない私は、夏休みと春休みと冬休みの宿題を、一度にしなければならない小学生のようだった。


この半年間、いったい何をしていたんだろう……。あきれはてるし、情けないし、焦る! 
今から、半年分のワークをしていくわけだ。しかも四人分! しかも卒業制作! 集大成!


(できるのだろうか?)


四つの作品は、すべて、ちがうタイプにしたかった。
自分にしかできない表現をしたかったし、可能性に挑戦したかったし、ゼロで得たすべてを使いたかったし、自分が何が好きなのかが知りたかった。
文章が好きなのか。イラストが好きなのか。マンガが好きなのか。コトバが好きなのか。


職人になりたい


読みかえしたブログ記事のなかに、


“わたしは職人になりたい”


という文章があった。


職人とは、どんなときにも、今するべき工程に集中できる人のことだ。
「千年もってくれ」 と、釘を打つ人のことだ。


その人を、「生涯ささえる言葉」を、わたしは贈りたい。


浜田えみな