だから、痛々しくて。
だから、いつも、言葉はどしゃぶりで。
だから、いつも、自分ひとりで。
ブレーキとアクセルを踏みつづけていた私。
* * *
1 セミナー中、一番ココロに残った一言
“いつも登場人物は一人”
2 今の自分に役立ちそうだと感じた部分
“アクセルとブレーキ”
3 今後チャレンジしてみようと思うこと
“耳筋”
既に、ゼロアーティスト養成講座は終了してしまい、卒業制作の発表も終わり、今ごろ六回目のブログ宣言など書いている場合では、《ぜったい、ない!》 のだけれど、この六回目があったから、今、ここにいる。
ここってどこ?
ここは、ここ。とっても、キモチがよくて、すがすがしくて、胸をはっているのに心もとなくて、泣いてしまいそうな場所。七ヶ月前に六人で船出をして、航海をして、今、降り立った。
ゼロアーティスト養成講座は、残り二十九日をどう過ごすかだと、初回に、講師の吉井春樹さんに言われた。
六回目から七回目までの二十九日は、どの一ヶ月より、ゼロに向きあった期間だった。ブログの更新もせず、ゼロノートを書いた。
卒業制作となるき課題。自分が、まっさらなことに気づいて、大慌ての復習。混沌。疑問。迷い。悶々。試行錯誤。自問自答。きゃらめるさんとのデート。選択。挑戦。決断。跳躍。
やりたいこと。やってみたかったこと。初めてのこと。及ばなかったこと。手放したこと。やっぱり好きなこと。あきらめないこと。そんな四つの作品。
* * *
「弱い人、好きですか?」
不意に吉井さんに問われて、絶句した。
「…それが、答えですね」と笑われた(笑)
弱い人は、キライだ。
弱い人は、強いじゃないか。
弱いと言える強さがあるじゃないか。
強い人はキライなんだ。
強い人は、キライだ。
強い人は、弱いじゃないか。
強がる弱さがキライなんだ。
弱い人はキライなんだ。
弱い人はキライ。強い人はキライ。
弱さに隠れた強さも、強さに隠れた弱さも、
どっちも、大キライ。大キライ。
自分のことがダイキライなんだ。
私は何をしたいのだろう?
いったい、何をしているのだろう?
ここにいていいのだろうか?
そんなことを、この後に及んで、思っていた。
みんなで六ヶ月もの間とりくんできた「ゼロ」を、
「ちっとも理解していません」
という証明のような作品を、「自分を癒すためのアート」として、ぬけぬけと発表したものだから、吉井さんが、あわてて乗りだしてきてくれた。
そもそもゼロってなんなのか?
ちっとも、わかっていなかった。今まで習ったことみんな、何もかも、全くわかっていなかった。
だって、わたしは、今いる場所じゃイヤなのだ。常に進んでいなくちゃイヤなのだ。どこにも行けなきゃイヤなのだ。何かしてなくちゃイヤなのだ。目指してなくちゃイヤなのだ。今の自分じゃイヤなのだ。いつまでたっても、どこまでいってもイヤだ。終わりなく果てしなくイヤだ。なんどゆるめても、なんどほどいても、ギリギリと締めあげていく。息ができないほどに。
* * *
“アクセルとブレーキ”
「アクセルとブレーキって聞いたことありますか?」
首をふった。
そのとき、イメージできたのは、初めて路上に出た自動車教習所の生徒のように、アクセルとブレーキを交互に踏んで、ちっとも前に進めない状態だった。
だから、そのあと、吉井さんが続けて話してくださったことの意味なんか、ちっとも伝わってこなかった。
《このままにはしておくわけにはいかない》
と、吉井さんがアプローチしようとしてくれているのに、ぜんぜん、理解できなかった。何を言おうとされているのかも、わからなくて、まるで、別の言語を聞いているようだった。
アクセルとブレーキについて、わかったのは、つい昨日(7/20)なのだ。
やっと、わかった。
《無意識のブレーキが強力すぎるので、生きるために、ものすごいアクセルを踏まねばならない状態》
のことなんだ。同時に踏んでいるという矛盾に、どうしても気づけない痛々しさ。
フルに、アクセルとブレーキを踏みこみ、もうオーバーヒートしかけているのに、まだ足りない、まだまだ足りない!と、アクセルを踏みつづけ、その一方でブレーキを、さらに限界まで踏みこみつづけている私の矛盾。
吉井さんは、なんとか気づかせようと、貴重な講座の時間を使い、あれこれ切り口を変えて導こうとしてくれたのに、全くわからなかった一ヶ月前。
アクセルを踏むのではなく、ブレーキをゆるめる。
今、やっと気づいた。
人から、いくら言われたって気づけない。言葉を尽くされても、わからない。
自分で「ワカル」って、どういう感覚なんだろうか。
とつぜん、やってくる。
とはいうものの
ブレーキって、どうやってゆるめるの?
ブレーキって、何?
なぜ、自分が痛々しく見えたのかがわかった。
わたしは、そんな状態で、前に進もうとしてきたのだ。ブレーキを踏みつづけているのに。
ブレーキさえ離すことができたら、アクセルなど踏まなくても、勝手に進みだすだろう。
すべるように? はこばれるように?
どんなに心地よくて、楽ちんなことだろう!
これが、ゼロティブなんだ。
* * *
“いつも登場人物は一人”
言われたとき、
(本当に、そのとおりだ…)
と思った。からだのまんなかを、打ち抜かれたような空虚。
誰がいても、誰といても、わたしは、いつも一人だったのだ…… たぶん、今も。
わたしが思うわたし。わたしが思う誰か。誰かではなくわたしが。わたししかいない世界。
では、誰かはどこに?
目の前にいる誰かの輪郭を、うきぼりにして、よりそうことが、ゼロティブ。
* * *
“耳筋”
六回目の講座は、「自分のための癒しのアート」を創る課題の発表だったにもかかわらず、わたしは、全く癒されておらず、そもそも、課題にとりくむことすらできなかった。
「癒し」という言葉が、あまりにも重くて。
この状況は、受講生のみんなで参加しているメーリングリストに「ヘルプミー」をした文章に、よく表れているので、下記に転載する。
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宿題について…。
自分のためのゼロアート、難しいですねー(><) どこまで求めるのだろう。 なかなか届かない。
表層だけを、なでたり、もんだりしていても、本当のコリがとれないように。
自分のことだから、奥にとどいていないことは、わかる。
といって、追求するのは、怖くなる。
カウンセラーの先生のところを訪れるのに匹敵するくらいのリリースを、自分で導きだすのだとしたら、
なんというか、やっぱり、こわくって、躊躇してしまうのです。何重にもガードして、傷つかないように、おしこめていたものを、のぞきにいくようなイメージがあるので。
自分の奥底を癒すには、それが浸透するための引っかき傷なり、裂け目なり、なんらかの痛み(気づき)が必要なのでは… という考えから脱け出せないからだと思います。
癒される前に、まず「痛み」だと、からだが思い込んでいて、深い部分の癒しの言葉を考えようとすると、反応して、びびりまくっているのです。
なので、前にすすまない。
<そうじゃない!>
北風と太陽の話みたいに、旅人のコートを脱がせたのは、コートを脱がせようと、力の限り吹き付けた冷たい北風ではなく、あたたかくおだやかな日差しをそそぎつづけた太陽だったと、頭ではわかっているのに、考えが動かないんです。考えが動かないということは、視点が一つだということですよねー。
PV PV !!
ゼロのテキスト、もう一度読もう。
でも。
ヘルプミーです(笑)
脱出したいので、アドバイスください。自分だと、やっぱり、視野が狭いので。
みなさんは、自分への癒しをどう考えていますか?
トラウマとかありますか?
解放できていないものをもっていると思っていますか?
それと、どう向き合っていますか?
わたしが、今、困っているのは、癒しのターゲットが、ひとつじゃないからかもしれません。
○○○○として 浜田えみなとして 妻として 母として 家庭における立場や 職場における立場や コミュミティにおける立場や、ありとあらゆるシーンで、へこむことあり、ゆきづまることあり、とらわれることあり、ダメなことあり、癒してほしい自分がいて、それぞれ欲しい言葉は違う
でも、一番の根っこは……
と考えたとき、それに対する言葉は、まだ、あつかえないような、そういう呪縛にかかっている感じです。
なんてハードルが高いのでしょう。ずっと、取り組めないでいます。自分でも整理できていないのに、ダラダラと書いてしまいました。投稿しようかどうしようか迷ったけれど、このままじゃ、堂々巡りなので、送信します(^^;
(2011.6.12)
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このあと、みんなからアンサーをもらって、課題にとりくむキモチになって、スピード感が欲しくて、今までやったことのない「コトバアート」というものに挑戦してみた。日めくりにしようと思って、一気に三十一考えた。
白状します。実は自信の塊です
驀進力は、思いすごしか思いこみ
ホントのことは言わないで
努力のゴールテープを切ってみろ
気のない振りでダンボ耳
おつりは渡さない
サビ抜きの人生なんて
往復切符はありえない
期待は裏切ります
好きなだけでは好きどまり
いつも崖っぷち
楽あれば落(ラク)あり …もとい、楽あり
いつの祭りだ? あとの祭り
他人に口あり
恋も方便
順番は抜かすもの
なんてことない すべて気のせい
悟りは観音開き 気分はリバーシブル
はじらいも芸のうち
強がりません
本気は技術
退路は進路
子どもの頃の夢なんて、若気の至り
もっと私に期待して
予感は妄想 期待も妄想
家事のかけひき
信用できるが信頼できない
嘘はつきます
恋は他人どんぶり
自我持参
今日は勝負眉
幾つかは、イラストをつけて、ブログで公開した。
そのなかで、「自分を癒すためのアート」として選んだのが、
「好きなだけでは好きどまり」
どうしても、どうしても、わたしはアクセルを踏みつづけたかった。踏みつづけようと思わなければ、負けてしまいそうだった(何に?)。 踏みつづけるための力なら、どんなものでも欲しかった。
だって、わたしは、今いる場所じゃイヤなのだ。常に進んでいなくちゃイヤなのだ。どこにも行けなきゃイヤなのだ。何かしてなくちゃイヤなのだ。目指してなくちゃイヤなのだ。今の自分じゃイヤなのだ。いつまでたっても、どこまでいってもイヤだ。終わりなく果てしなくイヤだ。なんどゆるめても、なんどほどいても、ギリギリと締めあげていく。息ができないほどに。
どんなにゼロティブで、ゆるめても、ほどいても、放しても、最後はアクセルを踏む。
踏んでいないと、ダメだと思っているから。いや、ダメだから。
ダメって、何がダメなんだ?
三十一のコトバは、すべて、アクセルだ。
ブレーキを踏むのを止めればいいと、気づくことができないまま、六ヶ月もの間、いったい、何をしてきたのだろう?
ゼロの六回目が終わったとき、空白になった。今までの六ヶ月、すべてが空白に戻ったことに気づいて、愕然とした。
だけど、それは、気づくための空白だった。
アクセルを踏むためにゼロティブを使っていたということに。
だから、痛々しくて。だから、いつも、言葉はどしゃぶりで。だから、いつも、自分ひとりで。ブレーキとアクセルを踏み続けていた私。
そうではないのだ。
ないと思っているものに、気づく。
ブレーキをゆるめるって、どういうことなのか。
ブレーキが、なんなのか。
そのヒントが「耳を動かす筋肉」のようなものだと、吉井さんが教えてくれた。
浜田えみな
耳筋?
答えは出るのか?
次回は、最後のブログ宣言? それとも、余白シリーズ?
佳境に入ってきました!!