君自身を運転してみろ
-吉野弘全詩集より-
厚さ六センチの全詩集を、ぱっと開いて、飛びこんできたのが、この言葉だった。
一八八ページの一行目。
それ一語で、電撃が走りぬけるような言葉がある。
それ一語で、切りこむような覚醒を呼ぶ言葉がある。
“君自身を運転してみろ”
その瞬間、乗りこんでいた。運転席におさまっていた。
初めて教習車に乗りこんだときのような、ぎこちなさ。
右手はハンドル、左手はシフトレバー。踏みこみきれないつま先。ずれた座席。息苦しいシートベルト。前後左右、一体感のまるでない、心もとなさ……
何もわかっていなかったじゃないか。車幅も。車高も。内輪差も。排気量も。燃費も。加速も。
あのカーヴは曲がれるのか?
あの道は通れるのか?
空間認知できているのか?
減速しないでいいのか?
迂回すべきじゃないのか?
ガソリンは満タンなのか?
どんなタイヤをはいているのか?
メンテはできているのか?
スポーツカーなのか?
軽自動車なのか?
荷車なのか?
そもそも、車なのか?
船だとしたら、陸をゆくのは無理だろう。
飛行機だとしたら、空を飛べるだろう。
ロケットだったら、宇宙を目指せ。
車で海を目指さぬよう。
船で平原を目指さぬよう。
飛行機で宇宙を目指さぬよう。
ロケットで野辺を目指さぬよう。
車でも船でも飛行機でもロケットでもない、自分自身。
慣らし運転なら終わりにしろ。
借り物の代替車なら乗りかえろ。
行路をどう選び、どう乗りこなすのだ? と、問いかけられた。
浜田えみな