◆忘れ物その壱◆


ライブなんて何年ぶりだろう? すっかりいろんなことを忘れていた。
アリーナというのは、段差のない平面だったのだ。わたしは身長一六二センチで、女姓としては低いほうではないけれど、高くもないから、厚底の靴をはくか、踏み台になるような分厚い本を用意しなければ、目の前に男性がいたら何も見えない。なのに、そんなこと、すっかり忘れていた。
たまたま八列目だったからよかったけれど、それでも目の前は鉄壁みたいな厚い背中のジャンボな男性で、かなり視界が制限されて悲しかった。とにかく身動きできないくらい狭いのだ。
次の六月五日の大阪城ホールでは、かかとの高い靴をはこう。踏み台も手作りしておこう。


◆忘れ物その弐◆
 
今回はメモを取ろうと思い、筆記用具を持ってきたのに、上着にポケットがなかった! 
ジーパンに差したペンは、動くたびに、そけい部に突き刺さりそうだし、手帳をもったまま手拍子するなんて、ジャマだし集中できなくて最悪だった。ライブでそんなことをしている人はいない。(<おまえはライターか?) 楽曲の途中で、ジーパンから、ペンを引き抜いて、ちょこちょこ書いたりしているのも、両隣の人から見れば興ざめだ。しかも、そんなにまでして書いたのに、あとで見ると、ほとんど判読不能だった(!) 字というのは、目で見ているから、バランスよく書けるのだと初めてわかった。
暗がりで文字を書くと、自分ではちゃんと書いているつもりでも、交わるところで交わっていないし、テンと線も、信じられないバランスで空中分解している。しかも、持ちなおすたびに手帳の上下が逆になったりして、どう続いているのか、自分でもわからなかった。その上、次の行(のあたり)に書いていたつもりなのに、同じ位置に、どんどん上書きされていて、本当に文字が読めないのだ。


がーーーん。


MCのメモなんて、省吾の顔ばかり見ていたので、気づいたときには遅く、ほとんど聞き書きできていないし(苦笑)


◆『妄想気分』◆


帰りの電車で読んでいたのが、小川洋子さんのエッセイ『妄想気分』だった。


コンサートの余韻にもひたらず。

手帳を取りだし、演奏された曲やメモを見直して感慨にふけることもなく。
なぜだろう。逃げるように、リュックの本に手をのばしていた。手提げカバンの中には、買ったばかりのパンフレットもあったのに。
なぜだろう。なぜなんだろう。何から逃げだしたのだろう?


小川洋子さんは、年齢も同じくらいで、デビュー作からずっと読んでいる作家だ。
村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』を読んで、衝撃を受けすぎて、自分が書いている文章表現の浅さに打ちのめされ、限界を感じ、無力感で何も書けなくなっていたとき、


(こういう小説世界もあるんだ!)


と、光を投げかけてくれたのが小川洋子さんの本だった。


(どこからすくいあげてくるのだろう?)


 と思える言葉が連なる珠玉な文章は、ありきたりの用法ではなく、こんなふうに使えば、こんなふうに言葉が生きるのだという、驚きとため息の連続で、どこを切りとっても、丁寧で的確で、どの一文にも手抜きのない、息をのむようなまじめさとひたむきさで綴られている、暗記して覚えてしまいたいくらいの美しい文章は、ぞくりとするような視点と、日常の中に展開する非日常な世界を構築していて、静かなのに、ぐいぐいひきこまれ、異世界に入り込んでいる物語に、魅力を感じていた。このあいだ覚えた言葉で言えば、小川洋子さんの織物の「風合い」のとりこだったのだ。


『妄想気分』に収録されているエッセイ「父との別れ」のなかで、一九九八年の秋、海燕新人文学賞の受賞が決まって、福武書店を訪れた洋子さんを、出迎えてくれた編集者の第一声が、受賞おめでとうの言葉もないまま、
「次の小説書けましたか?」「受賞作以上の作品じゃないと載せませんよ」で、それを何度も繰り返したと書いてあるのを読んで、(ああ、そうなのか…)と思った。


やっぱり、そうなのか。


これとはぜんぜんレベルが違うのだけれど、昔むかし、優秀作に選ばれると「長編小説のプレゼンテーションができ、書籍化のチャンスがある」という賞に応募したことがあり、どんな引きよせマジックだったのか、一生分の運を使いはたしたように受賞したことがあった。本人が一番びっくりして、三十枚以上の作品など書いたことがないし、なんの構想も浮かばなくて、「長編小説なんか書けない」と、友だちのGちゃんに、泣きごとを言ったら、


「そんなのわかってるのに、長編小説のプロットもたてずに応募してたの? 書けないなら、なんで応募したの? 落ちた人は、みんな本気だよ。失礼だよ。申し訳ないと思わないの? みんなは、受賞したら編集者に見せる長編も一緒に書いてるよ!」


と、ものすごく叱責されたことを、


(ちょっと励ましてほしかっただけなのに)


と、実は、つい最近まで、思いだして、しつこく根にもっていた(苦笑)。 
やはり、わたしは、とんだ甘ちゃんだったのだ。Gちゃんが正しかった。根にもっていてごめんなさい。
『妄想気分』を読まなかったら、わたしは、甘え根性のままだった。二十年近く気づかなかったなんて。

気づけてよかった。


◆『君が人生の時…』◆


ふと思った。好きなアーティストは自分にとって「人生」だ。

人生の節目節目に吹いている風のようだ。あるいは、なんということもない日々に、よせてくる波のようだ。


年を経て、同じ歌の受けとめかたが、かわっていることに気づく。聞き流していた歌詞が、とつぜん、リアルな世界を築いていく。からだに響く波動がかわっていく。


そうだ。そうなんだ。

ふりかえるきっかけをくれたり、生き方を見なおしたり、立っている場所を確認したり、これからの指針を与えてくれる! 

省吾は私にとって、そういうアーティストだ。
そうか。だからいいのだ。今、こんなにモタモタしているのは、コンサートレポートを書きたいわけでなく、自分の人生を、あらためて、俯瞰しようとしているからだ。


わたしが書きたいのは、実況ライブ中継ではないのだ。


そうだ、書けないときの三種の神器を用意するのを忘れていた。ゼロアーティスト養成講座の初回でやったじゃないか。書けないときの自分へ贈るメッセージ。


「めぇとてぇがあれば書けるやろ」


目は、視点 目的・着地点・オトシどころ。
手は、技術 構成・表現・キモチよさ。


これが明確でなかったから、目と手がちぐはぐになって、進めなかったのだ。
あらためて整理しよう。


目的 今、自分が立っている場所および現在の「人生観」の確認  
着地点 今後の指針の明確なメッセージ化  
オトシどころ 浜田省吾との関係を振りかえる十四歳からの成長とギフト


手は……

ここまで書いて、ふと、


(こういうことは、舞台裏の作業じゃないか)


と、思った。いつもは、頭の中で行っている作業だ。「目」と「手」が固まるまで頭のなかで何日も考えている。

まいったな。何を公開しているのだろう。省吾のコンサートのことだったので、すっかり舞いあがっていて恥ずかしい。今回は、ポカばっかりだ。

だけど、この過程は残しておこう。気づくまでに、こんなに原稿を費やしましたと(苦笑) 


教訓 どんなときにも、「めぇとてぇ」 それぞれの三種の神器を、明確にしてから、執筆に入ること!


浜田えみな 


つづく (さあ、いよいよ、次回から始動です!)