わたしは、自分の名前が嫌いだったけど、使われている漢字もキライだった。なんでこの漢字なんだろうと思っていた。つまり、自分の名前が、いやだったのだ。これは、かなり不幸なことだ。


ところが、少しずつ、かわっていく。
「弓」の持つイメージ。
「虹」という言葉。

「レインボウ」という英語が、「レイン(雨)」と「ボウ(弓)」だと知った。

「アルカンシエル」というフランス語が、「アーク(弓)」と「シエル(天空)」だと知った。
自分の名前のなかに「虹」をもてた。めざすべき的をもてた。

そして。

かけがえのない……


指摘されたことも、数えたこともないけれど、わたしの文章の中には、かなりの頻度で出現している「かけがえのない」(笑) 
だれにでも、いつでも、どんなときでも伝えたくなる。その言葉が、「弓」に関するものだとわかった。


弓を引くときに用いる皮製の手袋を「かけ」という。
弓道では、それなくしては、弓が引けないために、弓以上に大切なものとして扱われている。自分の手になじんだ「かけ」は、ほかに代用ができない唯一無二のものなのだ。
ほとんど無意識に使っている大好きな言葉が、キライだった自分の名前の漢字をささえていた。


また、「満を持す」という言葉がある。
『史記(李将軍列伝)』による出典で、「十分に準備を整え、機会がやってくるのを待ち受けること」を意味する言葉だ。これも、「満」が、「弓をいっぱいにひきしぼった」状態で、「持す」が、それを「保つ」さまだと知った。

「弓」は、古代から、戦場で武器として使われるとともに、「弓矢」には霊的な力が宿ると信じられ、奉納や神事が行われていた。現在でも、破魔矢は縁起物として祈願されている。


おじさんは、「弓」のもつ武術・弓術としての強さと、弓道としての精神性、霊的な力など、すべてを包括して、「弓代」と名づけてくれた。
三月に法事で帰省したとき、
「弓代の名前は、けして挫折しない名前やけん!(年をとればとるほど)だんだん、よくなるけんな!」
と、別れ際に叫んでくれた。
(おっちゃん、それ、「よ」のことだまやでー)


あきらめない。挫折しない。だから、夢がかなう。


そんなことを、ちゃんとわかって、名づけてくれていたのだ。
四十年以上、キライですごして、本当に、もったいなかった。それまでのわたしは「とじていた」。


名前の音が好きになり、名前の漢字が好きになり、愛につつまれた自分が好きになり、ふつふつと目覚めた自分の力を使えるようになっていく。だんだん。だんだん。


だんだん。だんだん。


そして、ゼロティブ。


べつに、いいのだ。ゆみよでも。ゆみよじゃなくても。もちろん、えみなでも。
弓でも、由美でも、優美でも、夕実でも、友未でも。
どんな音でも、どんな字でも、わたしは、そのよさをみつけて、受けとり、幸せを感じて、自分のエネルギーにできるだろう。自分のなかの、新しい力を呼び覚ますだろう。

あなたの名前は「ゆみよ」じゃないと言われ、変えろといわれたら、それもいいだろう。新しい愛を受けとり、新しい自分が始まる。
おじさんが考えてくれた名前の候補だって、五つあったのだ(笑) 選んだのは両親。どの名前になっていたとしても、わたしの誕生に、そそがれたものの深さに代わりはない。


これじゃないとダメだなんていう、動かすことのできない大切なものは、目に見える形で表しきれるものではないのだ。
たとえば、文字は、事象のエネルギーをつなぎとめようと、最大限の努力をしているけれど……。
たとえば、絵画も。たとえば、造形も。たとえば、音楽も。
だけど、それは、ほんの一部を、やっとこさ、つなぎとめようとした「名残」みたいなものだ。
本質は、ひとつの言葉で表しきれるものではない。 だから、推しはかるのだ。
別の角度から。別の地平から。すると、なんだ、みんな同じじゃないかってわかる。


ともすれば、かたくなに固執して自分を追いこんでしまいそうなことなんて、ゼロティブ思考で、どんどんディベートすればいい。ゆずれないと思っているもの、動かせないと思っているもの、そんなものは、ずっと柔軟で、フレキシブルなことがわかる。


ぐんぐん、らくになっていく。ずんずん、やさしくなっていく。


*          *         *


リクトやコツメが、大きくなって、自分の名前の漢字を調べて、少し元気が出るような意味を見つけてくれたら、それは嬉しいことだけれど、わたしは名前をつけるときに、漢字の字源なんて調べていない。

ただ、呼びたかっただけ。毎日、毎日、朝から晩まで。
ただ、だきしめたかっただけ。名前を呼んで。


                     浜田えみな