先日、ふと気づいた春のひざし。やわらかな光を浴びて、無数に輝いている様々な葉っぱの息吹を感じて、


(「言葉は葉」なんだ!)  →ブログ記事「講座の余白(9) ~言葉~」


と実感したのだけれど、今、「言葉は糸」説に、大きく傾いている。


つむぐ。


何本もの細い糸をより合わせながら、一本の生糸にしていく作業。
感性のすべてで選びとり、たぐりよせたいくつもの想いを、より合わせ、ただひとつの言葉にしていく作業。

そんなふうにしてできあがった言葉の糸で、織りなす織物。
文章表現は、織物だ。


風合い。


文字は、誰がつかっても同じ。ひらがな。カタカナ。漢字。

なのに、それが文章として表されたとき、喚起されるものが全くちがう。訴えかけてくるものが、ちがう。


(なんなんだ。これは)
何がちがうんだろう? どこがちがうんだろう?


(好きだ)
と想う文章に出会うことがある。小説でもなく、エッセイでもなく、感情を表してるわけでもない、ただの説明文なのに、ぐいぐいひきこまれたり、なぜだか癒されたり、いつまでも読んでいたくなったり。


(どうしてなんだ?)
目をこらして、何度も読みかえすけれど、特に仕掛けがあるわけでもなく、文体に特徴があるわけでもなく、ひらがなとカタカナと漢字が並んでいるだけ。


(なんなんだ)
ずっと疑問だった。


わかった。織物なんだ。
織物には、風合いがある。


風合いとは、手ざわりによる布地の刺激が脳に伝わり、それによって引き出される感覚だ。それは、一つの感覚ではなく、さまざまな要因から誘発される「心理現象」だという。このことを知って、すべてが腑に落ちた。


わたしが、文章から感じていたのは、「風合い」なんだ。


日本語は、擬声語(擬音語・擬態語)が豊かな言語だ。風の吹きかた、雨の降りかた、雪の積もりかた、太陽の照りかた、花の咲きかた…… 

どんな小さな子でも、擬声語を使う。日本語から擬声語をすべて奪われたら、わたしたちは、どうやって表現すればいいのだろう? 


あらゆる自然現象や、感情の動き、情緒、わびさび…… 日本人は、古代から細やかな感受性で、表現しつづけてきた。


日本語は、日本人の物事のとらえかた、感じかたでできている。

日本語で書かれた文章には、日本人にしか出せない風合いがある。


言葉は、糸。

作者の五感で集められた、たくさんの想いをより合わせてつむがれた糸。
その糸がおりなす織物は、作者だけの風合いを持ち、読む人の、さまざまな記憶や感覚とつながり、心理現象をひきおこす。よびさます。


わたしがなぜ、幼いころから、文章表現にひかれていたのかが、わかった。
頭の先から足の先まで、「風合い」を、いつも感じていたかったからだ。
ときにやさしく。ときに激しく。


素材をつむぐ
言葉は糸。
つむいだ糸で、何を織ろう。


わたしの風合いは、だれを安らかにするのだろう。
だれを、くるむのだろう。


                     浜田えみな