吉井さんの講義を聴いていると、ふいに、画像が浮かぶ。リアルに。大画面で。大迫力で。
スイッチは、単語、文章、ワーク、さまざまだ。既知のことが多い。しまいこまれていたものが、ふいに、ものすごい速さで引きだされてきて、いきなり映像になり、臨場感あふれる3Dで押しよせてくる。モノクロだったものが、鮮やかなカラーになり、静止画としてストックされていたものが、動画となり、尽きることのないウェイブとなって、ストーリーを創りだしていく。
それを、観ている。あるときは内側から。あるときは外側から。とても不思議な感覚だ。
そういうものを、「ブログ宣言」で書いたり、「余白」で書いたりしているのだが、もしかして。
メソッドが、「自分のものになった」瞬間なのかもしれない。
2回目の講義で、吉井さんは
「自分の世界観のなかにもってこれたら、どれだけ関係のないものでも、自分のコトバで伝えられる」
と言った。
「自分のコトバを、どれだけもっているか」
とも。
とめどなく湧きおこる想いと、選びとっていく表現は、浜田だけの世界観だ。浮かびあがる映像は、浜田軸で再構築されている。伝えるとき、それは、思いのまま、自在に操ることができる、浜田のコトバだ。
* * *
前置きが長くなってしまったけれど、
「ブレてもいい」
これは、ブログ宣言で、「心のコロンブス」と並んで、書きたいと思ったテーマだった。
「ブレてもいい。ブレるたびに自分に近づいていく。ブレてると感じたときに、自分をどう見るのか」
こう、吉井さんが言ったとき、その場にいたみんなは、何を考えていたのだろう? 日本代表のサッカースタイルについて、岡田監督が語ったコトバだと前おきがあったので、岡田ジャパンに関するあれこれが、頭に浮かんでいたかもしれない。わたしだって、そうだ。
でも、「ブレる」を三回聴いた瞬間、サッカースタジアムは、いきなり法隆寺の境内になり、そびえたつ五重塔が、ごうごうとした地鳴りのなかで浮かびあがり、ぐいんぐわんぐおんと、まわりつづけていた。
これには、ベースがある。少し前に読んだ『木に学べ』(西岡常一著 小学館文庫)の中で、五重塔の構造について書かれた章があった。西岡常一棟梁の、「地震のときは、ものすごく揺れるだろうけど、ぜったいに倒れない」という趣旨の文章を読んだ瞬間、まわる五重塔が観えた。詳しく知りたくなり、構造について、調べた。
絶対に倒れない五重塔。中心を貫く心柱は、どれだけがっちりと構造を支えているのだろう?
ところが、五重塔の心柱は、てっぺんからぶらさがっているようなものだった。心柱と塔身は、一番上の五層頂部でのみ、倒れないように水平方向に支持されていて、一~四層では、間隙をとるために柱で囲まれた空間を、ただ、貫通しているだけなのだ。
法隆寺の心柱は、地面の下に安置された舎利(釈迦の骨)の上に置かれた心礎に乗っている。なので、地面まで届いているのだが、なかには、一層目の天井の梁の上で心柱が設置されて、下まで届いていない構造も見られるという。
心柱は、静止している状況では、塔を支える「要」ではないのだ。では、心柱の役割とは、なんだろう?
五重塔は、耐震設計の教科書と言われている。
浮かんでいるような心柱の構造にも驚いたが、一~五の各層もまた、積みかさねられているだけで、堅結していない!
地震時の振動モードの図解を見ると、「層の浮きあがり」と「層の飛びあがり」という表記がある。防災科学技術研究所が行った五重塔モデルの振動実験では、四層は、実際に、浮きあがったそうだ。「飛びあがり」の図では、積み重ねられた層が、完全に浮いて、飛んでいきそうな勢いで図解されている。『オズの魔法使い』の冒頭で、竜巻に巻きあげられてしまった、ドロシーの家のように。
(浮きあがり!)
(飛びあがり!)
(なんて、ダイナミックな!)
だけど、五重塔の層は落下したこともないし、倒壊もしていない。塔の落下と転倒を抑制したのが、「心柱」だった。
地下に安置された舎利(釈迦の骨)の上に置かれた心楚を支点とし、梃子の原理で、支持された五層の変位に対する抵抗力を発生させ、バランスを補う。先端に取りつけられた法輪が、揺れと変形によるエネルギーを吸収する。このほかにも、五重塔の構造には、さまざまな耐震・免振設計の要素がもりこまれている。実際の地震のとき、各層の屋根が互いちがいに揺れるのを見たという証言もあるそうだ。
折れない自分。崩れない自分。そのための、軸のありかた。
強くなくていい。太くなくていい。固くなくていい。動いていい。揺れていい。浮いててもいい。
絶対に倒れない、軸のありかた。
「五重塔モデル」は、つい、勢いこんで、がんじがらめに固めてしまいがちな気持ちをゆるめる、ヒントをくれた。
ゆるめることができてこそ、必要なときに、必要な力を、存分に、充分に、出せる。
「ブレてもいい」
講座のとき、まわる五重塔の次に浮かんだのは、遠心力だった。
強い遠心力で、ぐるぐるまわる。どんどん速く。ぐんぐん遠く。がんがん強く。どんなに速く強く遠くなっても、中心さえ動かなければ、安心だ。どんなに遥かな周期でも、軌道の上を、もどってこれると思った。いろんなところを旅して、見て、まわって、もどってくればいいと思った。大きくブレていいというのは、このことだと思った。
中心点さえ、動かなければ、その直径は、大きいほどいい。
だけど、考えがかわった。
中心だって、動いていいのだ。
そう思えた。
エネルギーが大きすぎて、軌道からとびだしたのなら、それだって、おもしろいじゃないか。
もどってこれなくても、かまわない。
倒れたって、いい。
Flexible
わたしが手にした、ゼロティブ思考のひとつだ。
浜田えみな