斧を「ヨキ」と呼ぶと知ったのは、一昨年の夏だった。「代」という字の語源を調べたときに、左側の形が「ヨキ(斧)」だと記されていた。その本には、「木を伐る斧ではなくて、聖器として、世代交代を告げる儀式のなかで使われていたもの」だという説明があり、自分の名前のなかに、鍛え抜かれた鋼の、とぎすまされた「ひびき」があることを知って、身がひきしまる思いがした。うれしかった。
なぜ、「斧」が「ヨキ」なのだろう? ずっと、わからなかった。だから、西岡常一棟梁の『木に学べ』のなかの「ヨキ」の説明と画像は、頭に焼きついた。絵本のさし絵の斧に描かれている線は、ずっと、鋼の光の反射を表したものだと思っていた。刻まれた筋だったのだ。意味があったのだ。
三本の線は「ミキ」で「神酒」。反対がわの四本の線は「ヨキ」で「四大(地水火風)」・「四気(太陽・土・水・空気…木を育てる気)」。 五穀や、四方山・山海の珍味をあらわし、表裏あわせて、山の神様へのお供えものなのだ。奥深い山のなかで、お供えものを用意できないとき、きこりは、斧をたてかけて、山の神様が与えた命を使わせていただくことへの感謝と伐採の許可、作業の安全を祈ったという。
「四大」と「四気」 ……ヨキには大自然(神)への畏敬の念が、深くこめられている。自分の名前のなかに、祈りと「地水火風」が入っていることを知り、さらに嬉しくなった。
* * *
和歌山のイベントは、紀ノ川で開催された。参加メンバーは、ネイリスト・タロットを使うカウンセラー・アロマセラピスト・漢方コーチ・ことだま師の五名。
五人に共通しているのは、心とからだと魂の健康をトータルで考えていること。内面の充実が外面を輝かせ、外面の輝きが内面を充実させる。心の健康がからだの健康をささえ、からだの健康が心の健康をうみだす。すべてがつながっている。
人をみる。育った環境をみる。おかれている状況をみる。どこから、どうやって、アプローチしていけば、そのひとが、いちばん、輝くのか? 必用なものは何か?
技術も知識も経験も時間も足りないと感じ、足ぶみし、今の自分にできることが、あまりにもちっぽけなことに、どうしていいかわからなくなりながら、でも、歩みを止めない。前を向いている。目標を見すえ、自分ができることに、しっかり足をつけている。目の前の座ってくれたひとに、心を尽くしている。
迷いながら、悩みながら、必要なことを、どんどん取りいれ、学ぼうとしている。師にめぐりあい、仲間にめぐりあい、ささえてくれる人にめぐりあい……。
若いエネルギーの躍動を感じた。(わたし以外は、みんな若いんです! 二十六歳とか二十九歳とか)
* * *
ネイルケアの実演を見たのは初めてだった。これはセラピーだ! と思った。みんながネイルをするわけがわかった。やってもらえばよかった。乾燥してゴワゴワで、ささくれだらけの指を出すのが恥ずかしかったのだ。こういうときに、自分を「す」のまま、さしだせないのが、わたしの課題だ。
あんなに大切にあつかってもらえるんだ。つつみこんでもらえるんだ。集中してもらえるんだ。
あんなにていねいに、あんなに心をこめて。髪の毛一本分のギリギリのラインを残して、リムーバーを使ったり、点みたいに小さなラインストーンを、一粒ひとつぶ、つめの上においたり。慎重で、繊細で、正確だ。
いつくしまれ、尊重され、たいせつに扱われている自分の指。ネイリストさんの手のぬくもりと、まなざしのあたたかさに、くるまれて、どんどん、きれいになっていくようすは、自分自身を尊重し、たいせつにすることを、教えてくれる。
髪をなでるように。だまって、ずっと、背中をさすっているように。……くりかえし、くりかえし、よせる波のように、かさねられていく想い。指は十本もある! 十本ぶん、すぐ目のまえで、羽のようなやさしさが、つもっていくようすを見ていたら…… それは、癒されていくだろう。満たされていくだろう。大事にされている自分が、いとおしくて、かわいくて、たまらなくなるだろう。
きれいにしてもらった指を見るたびに、きっと思いだす。サロンから出て、日常にもどっても。大切にされていたひとときを。目の前のことだけに向きあえた時間を。きれいにすることを約束してくれた、ネイリストさんの魔法のような技術を。
ネイルサロンって、こういうところだったのだ。通うひとの気持がわかった。いままで、(ネイルなんてー)と思っていた。つめをきれいにしようなんて、思ったこともなかった。だけど、わかった。目で見て、体感できる。
「自分を大切にすること」を、きれいなつめが、思いださせてくれる。
何度も何度も、たえまなくあふれてくる、その気持ちは、「じぶん温泉」だ!
抱きしめたくなるような、胸がいっぱいになる施術……
和歌山に来てよかった。次に会えたら、指をさしだそう。
「たいせつの創り方を、おしえてください」
一本ずつ、ひたろう。 → ミキさんのネイルサロン ~ Ruby nail ~
* * *
禅タロットは、自分でもやる。でも、自分が知っている言葉でしか結果を導けないし、無意識に、都合のよい場所に、自分を運ぶから、けっきょく、枠を越えられない。だから、機会があれば、リーディングしてもらって、別のステージにジャンプしたいと思っていた。
何を見てもらおうか。
わたしは、書くことを「手ばなした」と思った。「もう、いい」と思った。思ったけど、知りたいと思った。わたしは書いていいのか。書けるのか。書いたらどうなるのか。
結果は、現状そのまま。踏みきれない。決められない。どうしていいかわからない。
最初に引いたカードは、「現在の状況」だろうか?
・相反するものの統合・自己創造・新しく生み出されるもの のカード。
次に引いたのは、「潜在意識」だろうか?
・自分が受けいれられず、取りのこされているという感情(小さいころのトラウマ)を手ばなす、古い痛みを去らせる というカード(ああ、ぐっさり)
その次に引いたのは、「顕在意識」だろうか?
・現在の瞬間に集中する というカード(おお、今ここ!)
もう一枚、引いたのは、「アドバイス」?
・深く埋もれた過去の傷が現れてきているので、癒される用意を というカード(癒して癒して!)
そして、もう一枚。
マスターカード(マスターの瞳が告げるものを感じる。それが答えとされている)
それから、
「“なりたい自分”を表しているものを選んで」
と言われ、一枚いちまい、じっくり見て、「開花」のカードにした。女性性の開花。
そこに、夫はいるのか? 子どもたちはいるのか? 自分だけなのか? どんな状況かと聞かれたけど、よくわからなかった。自分の個人的な姿だと思う。外面の環境ではなく、内面的な開花。
そして、自分の決めた状況に、ゆきつくための課題が、次にひいていくカードだ。何枚も引かされた。順番は覚えていないけれど、
・「独り」を楽しむか辛く思うか、自分がくだした選択の責任をとるというカード(あああ!)
・個人でやるよりも、大きく美しい何かを仲間と創造する機会が訪れているというカード(まさに今!)
・執着して、しがみついている力をゆるめ、分かちあいがもたらす自由と広がりを感じるというカード(うう…)
彼のタロットリーディングは、カウンセリングとして行っているそうだ。カードは、内面の声を引きだしてくるもの。本人の気づきを促すもの。
リーディングのあいだ、むかいあっているのに、どうしても、「鍵」が開かなかった。わたしが、開けなかった。
「マスターカード」は、禅タロットだけにあるカードだ。深い瞳の人物が描かれている。受けとる用意をしなければならない。
「このカードを見て、どんな感じがする? このひと、なんて言ってる?」
と聞かれた。
マスターの瞳を見たけれど、いろんな想いがうずまいて、読みとることができなかった。自分で「決めつけている」枠から、抜けだせない。自分自身が「受けとる」状態になっていないことがわかって、混乱した。それでも、答を出さなければいけない。なんとかして、伝えようと思うのだけれど、コトバとして、表せない。確定できない。だって、見れば見るほど、マスターの眼力は、変わるのだ。オーラが、ゆらめく。どうしたらいいのだ。決められない。わからない。受けとれない。
表現できることは、とても曖昧な、どうとでもとれるような、ニュアンスのみ、……
それは、いったい、どういうことなのか? コトバにできない。コタエを出せない。
見えているのは「雲」だ。
「ほんとうのこと」をおおって、見えなくしている雲。その向こうに、うっすら、「ほんとう」が透けているとしても、全貌は見えない。雲が核を見えなくしている。
伝えるのは雲じゃない。雲の説明を、いくら忠実にあらわそうとしても、次から次へとカタチを変えていくものを、どうすることもできない。言ってるうちに、どんどんかわってくる。見ればみるほどわからなくなる。だって、雲なのだ。何時間、追いかけても、伝えても、雲だ。
「ほんとう」は、みえかくれしているだけ。そのうち、すっかり覆いつくされてしまうだろう。
雲をとりはらう「勇気」を! あらわれたものを見る「覚悟」を!
勇気も覚悟も、持てない。
それでも、雲のすきまに見える「ほんとう」を、手がかりにして、伝えてみることは、できたはずだ。なのに、できなかった。しなかった。コアをさけて、雲だけを口にしていた。このことを、指摘された。痛かった。
やればやるほど、罪悪感にとらわれる。家族をおいて、日曜日に、和歌山にいるなんて。 もしくは、講座に行くなんて。毎日、時間があれば、パソコンの前にいるなんて。
わたしが向きあうのは、だれ? わたしを必要としている人はだれ? わたしの「今ここ」は、どこ?
知らないだれかではなく、子どもたちではないのか? 夫ではないのか? 家庭ではないのか?
巻きもどせない時間が、空白のまま、からまわりしていく…… この想いは、「雲」なのか?
雲のストラグルに、斬りこんでくれたのは、目のまえの人から発せられた、ひとつのコトバ。
「きいてみたら?」
すべてが凝縮されていた。手をさしのべようとしてくれている人に、「雲」しか話せなかった理由。
…… 申しわけない気持ちでいっぱいだ。
言いかえると、
(すなおになったら?)
(しんじたら?)
(たよったら?)
(うけとったら?)
さいごに、言ってくれたこと。
人は、だれもが「しあわせになる道」の上にいる。人は幸せになるのが当たり前! 流れにまかせていればいいのに、悩んだり、考えすぎたりして、自然の流れに逆らってしまう。幸せなことが起きたらもちろん、そうじゃないことが起こっても その出来事そのものを受け入れる。そうすることで、その人にあった幸せが自然と訪れるよ
* * *
「き」のことだまが、どんどん訪れる。
だから、決断した(つもり)。自然体を心がけた(つもり)。不要なものは手放した(つもり)。西岡棟梁の本に学んだ(つもり)。古い根も切った(つもり)。
まだ、何かあるのだろうか?
和歌山に導かれた。イベントのメンバーは、
ネイリスト みきさん
タロットの ヨーキーさん
アロマセラピストの みほさん
漢方コーチの たつさん。
「き」のことだまの人が二人。鑑定予約をしてくださった人も「き」のことだまだった。
「き」が、わたしに伝えようとしているメッセージは、なんだろう?
大阪に帰る電車のなかで、西岡棟梁の『木に学べ』を、順番に思いだしていて、はっとした。
ミキさんと、ヨーキーさん。
「ミキとヨキ」
斧だ!
ミキとヨキが並んで目の前に!(こんなことって、あるのだろうか?ミキさんはともかく、ヨーキーさん??(苦笑))
神社に参拝して、ご神木にふれてきた。五百年の命をはぐくんだ土地をふみしめた。エネルギーをあびてきた。
そして、斧が差しだされた。
西岡常一棟梁は、著作のなかで、こんなふうに書いていた。
「斧ゆうのは、えらいでっせ。生きた木を伐るのも、伐ったあと荒削りするのも、割るのも、みんな斧です」
「自分の足に向かって刃振るんですから」
「それもただ力まかせやなくて、切ったら止めなあかん。ためる力がいる」
(『木に学べ』 西岡常一 小学館文庫)35P 36P)
斧で、斬りこんでいく。わたしのコアに。硬いなら硬いように。柔らかいなら柔らかいように。曲がっているなら、曲がっているように。ミキとヨキが伐りだすのは、古い根じゃない。命だ。地水火風がはぐくんだ力と魂。
斧はなんでもできる。人の役にたち、人をささえるために、振る。打ちこむ。伐る。割る。削る。創る。
どこにどう使えばよいかは、「き」のことだまを持つ宮大工が教えてくれる。使えない部分は、マキにすればいい。やる気をあたためる炎だ。ゼロアーティスト養成講座には、マキさんがいた!
たくさんの「き」。
ミキとヨキとマキ。
……
ここまで書いて、気がついた。
(わたしは、なんて弱いのだろう……)
浜田えみな
(つづく)
ミキとヨキの画像は → メインブログ 「君が人生の時…」