うごきだした!
近づいてくるのがわかる。
今は、まだ、境界線。
越えられるのだろうか? つながるのだろうか?
つかめるのだろうか?
新しい名前が、引きよせてくるものを。
こんなにも早く。こんなにも強く。
そうか。呼ばれたかったのだ。
呼ばれることを、欲していたのだ。
力は、どこから湧いてくるのだろう? 最初につながったのは、山本高史さんの『伝える本』で、「送り手の言葉は約束だ」という一文を読んだときだ。足りなかったピースがはまったように、両足が、がっつり地についた。めりこむくらいに安定した。なんのために発信するかが明確になって、守るべきものがわかったからだ。守るものがわかったら、人は、どこまででも、強くなれる。けっして破られない「約束」は、(そんなもの、ないかもしれないからこそ)焦がれてやまないものであり、どんなことをしても守りたくて、何があっても守りぬきたい決意の象徴だ。
そして、文章表現が、読み手を運ぶ「のりもの」を創ることだと気づいた瞬間に、創作への不安が消えた。のりものは「目的地」を約束するものだからだ。目的地がある。行き先が決まっている。なんて安心なのだろう。それならば、どんなに遠くても、苦しい道でも、進めばいい。進むだけだ。ゴールできる。そう思えたから、だいじょうぶになった。
え? 目的地も行き先も、ぜんぜん決まってへん?(苦笑)
忘れてはいけないこと。「のりもの」に乗るのは、受け手と、送り手の想いだ。ホンモノの「想い」の前に、文章表現なんて、不要だ。でも、わたしたちは、とても鈍感になり、ふれあうことや、受けとることに不器用で、想いの深さだけでは、通じないことも増えてきている。
だから、想いを、ちゃんと伝えるために、わたしは、文章というのりものを選び、祈りをとどけるために、コトバを探していたはずなのに……。
いつのまにか、「コトバ」だけに、とらわれていなかっただろうか? 耳あたりのよいコトバ、いい感じのコトバ、「っぽい」コトバ、斬新な表現…… あまりにもコトバに慣れすぎ、コトバに酔いすぎ、想いではなく、コトバを伝えることに熱中していなかっただろうか? 大量生産のテイクアウトのように、いつでも同じに、だれにでも同じに、トレイに乗せて、さしだそうとしては、いなかっただろうか? 表現者が陥りやすい、そんなワナ。
あやうく見失いかけていたかもしれないことに気づかせてくれ、原点へと、ひきもどしてくれたのは、ブログを読んでくださっているかたからのコメントだった。それは、コトバの器を超えて、あふれだし、パソコンの画面から押しよせてくる「想い」の波動だった。
(そうか、コトバは、のりもののようなものなんだ)と、このときに、気づいたのだ。
最初に書いた文章は、どんなものだったのだろう? 最初に書いた手紙は、誰にあてたものだったのだろう? 最初に書いた作文… 最初に書いた日記… ノートを前に、探していたのは、心の状態を、なんとかして表現する、コトバたちだったはず。ありのままの想いを、ただ、受けとってもらいたいと願って。
「えみな」という名前が、おしえてくれたのは、目的をもつ大切さ。
なんのために書くのか。どこに行こうとしているのか。それがわかれば、ゴールをめざす力なんて、いくらでも湧いてくる。どんなに遠くても。
昨日の、ことだま研究科の講義で、山下先生から、イソップの「ウサギとカメ」の寓話を聴いた。なぜ、ウサギはゴールできず、カメはゴールできたのか?
ウサギはカメを見ていた。カメは、ゴールだけを見ていた。
それは「な行」の教え。
えみな