荘子の話で「渾沌」というのがある。
のっぺらぼうの「渾沌」という人に、
周りの人達が立派な目鼻をつけた。
そして7日目、「渾沌」は死んだ。
という話。
何かを聞いて知ったこと、
それを経験したこと、
それを理解したこと、
それぞれは全く違う。
見聞きしたことで自分がたくさん知った気になって、それを基準にものごとを決めてきた。
それは自分が本当に選んだことではなかったと思う。
人の言葉の言いなりだった。
自分の考えでなく見聞きした観念を基準に生きる。
その原因の最も大きなものは、自分の感情を抑圧していたからだと思った。
本来自然なものであるネガティブな感情を味わうことから必死で逃げてた。
そんなものは存在しないと抑圧していた。
抑圧され溜め込まれたネガティブな感情は行き場を求めて別の形で出た。
人に対する欲求、置き換え、依存。
考えてみると当たり前だ。
抑圧して自分から切り離して閉じ込めて自分をいないことにしてるんだから、自分の意見なんて持てない。
人の言うことに従うしかないんだ。
そのことに気づいた今は、自分の感情をしっかり味わって解放して、自分との親密な関係を育ててる最中。
まだちゃんと育ってないから、時々コケる。
崩れてしまうときもある。
ネガティブ感情の大油田を掘り当ててしまって右往左往することもある。
だけど大丈夫、崩れても立ち上がる。
確固たる土台を作っている途中なんだから、何度崩れても再び挑戦していけばいい。
前を向く勇気は少しずつ育ってきたみたい。
先日自分に対して出てきたたくさんの悪口は、誰が誰に対して言ったものなのかをずっと考えていた。
ネガティブを切り離して、自分のことを自分じゃないものとして攻撃していたんだと思う。
自分の一部を自分で攻撃してたから、自己免疫疾患みたいに苦しかった。
私は私に対してあんたは私じゃないあんたはアカンやつだと言い続けていたってこと。
人に対して反射的に感じていたジャッジは、その心の表れだった。
立派な自分と思われたくて、目鼻を無理やり書いて完成させようとしてた。
だけどやっぱり、それは違うんだよな。
「渾沌」は「渾沌」としてしか生きられない。
そう考えるとそれほどアカンやつってこともない。
無我夢中の空回りも罵詈雑言も、悪事も、やってみたからそれをこの身で理解できた。
やらかした自分もアリだよな。
聞いただけなのに知ってると思い込み、自分は立派だと勘違いすることにすがったり、
もうそんなことしなくていい。
自分に頼る自分でいい。
3歩すすんで2歩下がるでOKなら、人と比べる必要もない。
私の場合、100歩下がって1歩すすむ。だけどね(笑)